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1873年(明治6年)に「楠久(くすく)小学校」として創立。数回の改組・改称を経て、現校名になったのは1954年(昭和29年)。2023年(令和5年)に創立150周年を迎える。校訓「やる気 思いやり がまん」校章山と波を組わせて図案化したものを背景にして中央に校名の略称「山東」の文字(縦書き)を置いている。校歌1927年(昭和2年)制定。作詞は菊地楢吉、作曲は真島豹吉による。歌詞は3番まであり、校名は歌詞に登場しない。通学区域住所表記で伊万里市の後に「楠久津(くすくつ)、楠久(くすく)、福川内(ふくがわち)、城(じょう)、峰、鳴石、久原一区、久原二区、久原三区」が続く地域。 「やる気 思いやり がまん」校章山と波を組わせて図案化したものを背景にして中央に校名の略称「山東」の文字(縦書き)を置いている。校歌1927年(昭和2年)制定。作詞は菊地楢吉、作曲は真島豹吉による。歌詞は3番まであり、校名は歌詞に登場しない。通学区域住所表記で伊万里市の後に「楠久津(くすくつ)、楠久(くすく)、福川内(ふくがわち)、城(じょう)、峰、鳴石、久原一区、久原二区、久原三区」が続く地域。
沿革
1872年(明治5年)8月 - 学制に基づき、松浦郡山代郷は「第六大学区、第八中学区、第十一小学区」に分けられる。
第十一小学区は更に里、脇野、長浜、久原、立岩、西分の6分校区に分けられた。
1873年(明治6年)- 「佐賀県管下 第六大学区 第八中学区 楠久小学校」が創立。
1874年(明治7年)- 教室1棟を増築。学区制が発足。
1975年(明治8年)7月15日 - 久原村に「久原小学校」が設置される。
1876年(明治9年)- 佐賀県のうち、松浦郡と杵島郡が長崎県に編入され、長崎県の学校となる。
1877年(明治10年)
11月 - 3分校(里・脇野・長浜)が分離・統合の上、精博小学校として独立。
この年 - 2分校(立岩・西分)が分離・統合の上、立岩小学校(本校と西分分校)として独立。
1879年(明治12年)- 教育令の施行により、高等科の教授を開始。
1883年(明治16年)5月 - 長崎県から旧佐賀県の地域が分離し、佐賀県として独立。再び佐賀県の学校となる。
1886年(明治19年)- 小学校令の施行により、尋常科(4年制)を設置の上、「尋常楠久小学校」に改称。
1887年(明治20年)- 東西山代村組合立 高等楠久小学校が併置される。
1889年(明治22年)- 町村制の施行により、西山代村立の小学校となる。「楠久尋常小学校」に改称。
高等科(楠久高等小学校)の運営は東山代村・西山代村共同での運営を継続。
1892年(明治25年)- 小学校令が改正される。東山代村と共同の高等小学校運営を解消。久原尋常小学校内に単級の高等科を併置する。
1893年(明治26年)- 楠久尋常小学校と久原尋常小学校を統合の上、高等科を併置し、「山代尋常高等小学校」に改称。
統合校舎完成までの間、楠久・久原両校舎の使用を継続。
1896年(明治29年)- 旧校舎を解体した用材を用いて大字峰長者浦に新校舎が完成。
1901年(明治34年)- 「西山代第一尋常高等小学校」に改称。
1902年(明治35年)- 木造新校舎が完成。
1907年(明治40年)- 小学校令改正により、義務教育年限(尋常科の修業年限)が4年から6年に延長される。
1908年(明治41年)- 小学校令改正を受け、従来の高等科1年を尋常科5年に、高等科2年を尋常科6年に、高等科3年・4年を、(新)高等科1・2年とする。
1909年(明治42年)- 校舎を増築。
1920年(大正9年)- 運動場を拡張。校門を設置。
1927年(昭和2年)- 校歌を制定。
1929年(昭和4年)- 鉄道(国鉄伊万里線、現松浦鉄道西九州線)開通のため、西山代村大字久原字高田65に新校舎が完成し、移転を完了。
1936年(昭和11年)4月 - 西山代村が町制施行で山代町となる。これに伴い、「山代第一尋常高等小学校」に改称。
1937年(昭和12年)- 講堂と一般教室棟が完成。
1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行により、「山代第一国民学校」に改称。尋常科を初等科に改める(初等科6年・高等科2年)。
1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制)の実施により、国民学校初等科が「山代町立東小学校」に改組・改称。
国民学校高等科は青年学校普通科と統合され、新制中学校「山代町立山代中学校」に改組された。
中学校校舎完成までの間、小学校校舎一部を貸与。
1948年(昭和23年)- 中学校への校舎一部の貸与を終了。学校図書室を増築。
1949年(昭和24年)- 楠久炭坑開坑のため、この時から徐々に児童数・学級数が増加し始める。
1954年(昭和29年)4月1日 - 町村合併により、伊万里市が市制施行。これにより「伊万里市立山代東小学校」(現校名)に改称。
1955年(昭和30年)- 完全給食を開始。
1958年(昭和33年)- 児童数増により、木造2階建て6教室を増築。
1959年(昭和34年)- 校旗を制定。
1960年(昭和35年)- 児童数増により、木造2階建て6教室を増築。
1962年(昭和37年)- 久原炭坑の閉山により、児童数が激減する。校舎一部を解体。
1964年(昭和39年)- 鉄筋コンクリート造2階建て新校舎(6教室)が完成。学校前にバス停が新設される。
1966年(昭和41年)- 鉄筋コンクリート造校舎を増築。
1967年(昭和42年)4月 - 特殊学級を設置。
1968年(昭和43年)
伊万里市西部地区学校給食センターの完成により、給食の自校調理方式を終了。
楠久炭坑の閉山により児童数が激減。
1970年(昭和45年)- プールが完成。交通公園を設置。
1972年(昭和47年)- 運動場を拡張。温室が完成。
1978年(昭和53年)- 体育館が完成。
1989年(平成元年)- 第二図書室が完成。
2004年(平成16年)- 新校舎、体育館が完成。
1873年(明治6年)に「楠久(くすく)小学校」として創立。数回の改組・改称を経て、現校名になったのは1954年(昭和29年)。2023年(令和5年)に創立150周年を迎える。
校訓
「やる気 思いやり がまん」
校章
山と波を組わせて図案化したものを背景にして中央に校名の略称「山東」の文字(縦書き)を置いている。
校歌
1927年(昭和2年)制定。作詞は菊地楢吉、作曲は真島豹吉による。歌詞は3番まであり、校名は歌詞に登場しない。
通学区域
住所表記で伊万里市の後に「楠久津(くすくつ)、楠久(くすく)、福川内(ふくがわち)、城(じょう)、峰、鳴石、久原一区、久原二区、久原三区」が続く地域。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
※明らかに場所以外に関するの内容、特に学校や生徒への批評や意味不明な投稿は削除させていただきます。
例)東京第一小学校の場合
・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
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伊万里市立山代東小学校がある
佐賀県伊万里市の地域事情