例)夜になるとプールにお化けが出るといううわさがありました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白プール: | 私が小学校の時は、プールは別の場所にありました。総武線の高架下をくぐった、テニスコートの隣にありました。 先生が、塩素の白い丸い消毒剤をよくプールに、沢山投げていました。プールの脇に、白い消毒用の小さい風呂みたいなのに入ってから、泳いでました。 |
プール: | 私が通ってる頃はプールはなかった笑 |
プール: | 私は、カナヅチでした。プールは、苦手でした。ズル休みしたり、わざと、水着忘れたりして、避けていました。ですが、マセていたのでしょうか?好きな女の子の水着姿を見たくて、学校を休んだりはしませんでした。泳ぐのは、嫌でしたが(笑) |
プール: | プールに向かう途中亀を見つけたな、校門の水路で |
プール: | ナニコレ珍百景に出て認定貰った |
プール: | 夏以外はカモがいた。地獄のシャワー。。。中学校にはプールがないのでもう二度と浴びれない。。。 |
プール: | 校庭が狭くてプールは板で蓋をしてその上も歩いたり出来ました。確かその横には藤だなが有りました。 |
プール: | 室牧ダムから川の水をポンプアップ?掃除の時に魚がいたこともあった。 |
プール: | 特練にいってた笑 |
プール: | 水泳部で 10人以下の 少人数ながら 昭和区大会で 御器所小学校 優勝しました。 |
体育館: | 体育の授業で些細なことで友達と喧嘩してしまい、体育の陰で泣いていました! |
感謝: | 若葉ちゃんいつも遊んでくれてありがとー! |
恋: | 頭のいいETくんと大人っぽいKYくんが好きで学校行くの楽しかった(*^^*) |
告白: | 本当はずっと好きだった男の子に告白されたのに、勇気がなくて嘘をついて断ってしまいました…。なんだか今でも心に引っかかっている思い出です。もし、本当の気持ちを伝えてくれていたとしたら、キズつけてごめんなさい。 |
教室: | 壁が外れる。教室の大きさがかえられる。便利だけど風が強いとき壁が揺れてたな |
告白: | 僕も、好きでした!! |
謝罪: | ごめんなさい。仲良しだった4人の仲を壊してしまって。 |
図書室: | とにかくデカい。サザエさん40巻位全部読んだ記憶がある。 |
教室: | けん玉などいろいろしました。後は、思い出せないけど楽しかったのは、覚えています。担任の先生にあいたいなー。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |