例)学校に伝わる伝説・逸話 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白伝説: | エビは怖いよ |
伝説: | 空き缶を入れると10円でてくる機械に入れるもんだから近くの自販機の空き缶あんま入ってなかったような気がした |
伝説: | 大飯中学校に不法侵入した人?それ水産の人では? |
伝説: | 林、清水歴代で1番の悪先生も意見できなかったらしい。学校来て寝てたらしい。2人とも今は組長らしい |
伝説: | 先輩たちが卒業後、年下彼女(在校生)を迎えにトヨタGX71系や日産セドグロで来校する。 |
伝説: | 宮藤官九郎さんをお招きし、体育館で講演をしていただいたことがあります。 |
伝説: | 中学時代に悪い意味で有名だったKさんが高校に入学して更生して西高出身としては信じられない会社に就職した |
伝説: | 私を知っている友達を探しています |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |
伝説: | 学食がめちゃくちゃ美味かった❤️ |
トイレ: | 掃除の時間、友達と喋って掃除をなかなか進めなかったから、院長に怒られたわ。 |
職員室: | 古典の先生の授業中に、一番前の席で暑くてスカートを膝までまくり上げて座ってたら、1度怒られて、暫くして又暑くてまくってたら、そんなに見せたかったら職員室で見せろ~!!!って怒られた。 |
感謝: | こたつねこ、あの頃はTEL ありがとう、楽しかった思い出です✨ |
図書室: | 高3は30分早く来て勉強した |
恋: | 女子バレー部のKSさん初恋の人 |
怪談: | 以前から夢で南海高校というところによく行くので本当にあるのかな〜と調べてみました! |
屋上: | 屋上は普段は利用禁止でしたが、告白する時だけは使って良いことになっていましま。先生公認で。 |
教室: | 授業、特に風紀に厳しい先生の授業では髪型をくずしていると注意されるから、授業前に慌ててピンを前髪にとめて教室の席で待機してまして。 |
音楽室: | 神聖なる場所で、ご自分のピアノ指導生徒同士を比べ、アンタは⭕️⭕️さんに負けたわね!と平気でほざくピアノ教師がいました。ピアノは勝ち負けですか。教師失格、最低教育者 |
卒業式: | 大舘工業高校の前進、花岡工業高校の卒業生です。大舘工業高校になりやがて統合し、廃校になったのは何とも寂しい限りです。卒業式忘れもしない花工の卒業式。初めてお袋が卒業式を見にきてくれた。その式場で各クラスの優等生が秋田県教育委員会から表彰された。その1人に選ばれ母の前で名前を呼ばれその場で「起立」したことは今でもわすれない。母は既に他界したが決して裕福な家庭ではなかったけど、一生懸命応援してくれた。1カ月の授業料は4,000円だった。式が終わり教室に戻ると電気科の1番だった生徒が代表で貰った「優等生」の「表彰状」を持って来てくれた。それを「お袋」はジッと部屋の片隅でみていた。帰るとき「花岡駅」までの道すがらお袋と並んで歩いた事が今でも懐かしい。 |