例)夜になるとお化けが出るといううわさがありました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白体育館: | おくたいと読んでいた |
体育館: | ステージのところに、霊が、いた |
体育館: | 綺麗になっていた |
体育館: | 卒業制作で、舞台正面左側に校歌を一文字ずつ彫った一人です彫った文字覚えてないのどうなん? |
体育館: | 休み時間に、みんなでよく『手つなぎ鬼ごっこ』をやってました。他所では見たことない遊びだったな~。 |
体育館: | なんでかは忘れたが、体調悪くてゲロ出しながら体育館通り玄関に向かった。振り向くと兄ちゃんがゲロ掃除してくれた。泣く! |
体育館: | 体育館の女子トイレに汚物入れがあって、その中にとてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーも臭ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい女子が使ったナプキンが入ってる。 |
体育館: | 放課後 体育館で バレーボールチーム結成し、先生が バレーボールを教えてくれました。 |
体育館: | いつも放課後は、バスケ部と体操部が跳び箱で仕切りを作って体育館を半分ずつ使っていました。 狭い体育館で、なんで半分ずつなのってみんな文句言ってたなぁ笑 |
体育館: | まおまおヤッホー |
恋: | 実は私、中西先生に恋をしていました! |
怪談: | あれは小学6年生の頃の話しです。プールが苦手だった自分は、よく夏の補習に出させられました。そんなある時、自分の通学路に人形をくわえた野犬がいたのです。野生の犬はウイルスをもつと |
職員室: | 入る時なぜか、めちゃくちゃ緊張する・・ |
入学式: | 入学試験がありました。 おぼえているのは、、絵を見せられ、隠されたあと「なにがあつたか」な聞かれたり。小さな積み木を時間内に多く積む。体力テストもありましたね。遠い記憶です。 |
校庭: | 大縄大会が終わってからも練習しました。おかげで4分間に600回を跳ぶことができました。 |
屋上: | なんか屋上に通じる扉的な場所に男子群がってたわ |
運動会: | 組体操は一度もやったことがありませんでした。それでも死ぬほど楽しくて、死ぬほど一生懸命に取り組めていたと思います |
校庭: | 地図池が沈没すると石川も沈没するっという噂 |
運動会: | ルビーの指環(寺尾聡)。あの時のアレンジが無性に思い出されてさんざん探して発見、聴いたらノスタルジーと自分の波長にピッタリの曲風のアレンジで、ホンマにもう滂沱の涙。以来しばらく、毎日のように聴いていた。今でもたまに目が潤むね。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |