例)夜になると図工室にお化けが出るといううわさがありました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白図工室: | カラキくんを作った。なんか、中学校にはない糸鋸があった。糸鋸で遊んでるやついた。危なっ!!! |
図工室: | 授業で彫刻刀を使って芋判を作ったのと版画をやったのを憶えています。 |
図工室: | ひとつだけ高い椅子があったよね |
図工室: | 図工室の机といすは木でできていた |
図工室: | 図工で糸鋸を使うのが怖すぎて蔭山先生に手伝ってもらって蔭山先生居なかったら篠原先生にお願いしてめっちゃ怖くて先生に迷惑かけたな〜…って思って後悔してますwwwだけど卒業して思いました、有住っ子のみんなに出会えてとても幸せだった。先生達もみんな優しくて、とても…とても嬉しかった!6年生になって卒業の前の日に卒業するの嫌だなぁ〜…って…胸が張り裂けるほどの悲しかった。だけど卒業して中学の入学当日に、担任の先生が来てくれて泣きそうになりました。最高な学校生活でした!! |
図工室: | 工作の時は、友達と「あーでも無い」「こーでも無い」と言いながら楽しんでたなあ |
図工室: | よく先生のお手伝いをしていました。 |
図工室: | マジで!そーなんだ… |
図工室: | 毎朝、授業が始まる前にクロッキーをしていました。 |
図工室: | 図皇室のガラスをみんなの前で割ってしまった超恥ずかしい思い出があります |
理科室: | 爆発しそうになった |
恋: | 大好き、、、、嘘、、、、、だいすけ |
プール: | 昭和42年頃まで、プールは、校庭の真ん中にありました。冬は、フタをして、校庭になりました。 水漏れするようになったため、新しいプールが、別の場所にできました。 その頃、テストがあって、級があったような気がします。 |
屋上: | 屋上には、たまにしか行けないのでもっと行きたいです。お化けの噂は聞いたことはありません✖️ |
飼育小屋: | 週末や長期休み動物達はどうしてるんでしょうか?当然責任持って毎日誰かがお世話しに来てあげてるんですよね。今やうさぎとネット検索したら飼育の仕方や飼い方すぐ見れます。うさぎだから休みはお世話しなくていいなんておもわないで下さいね。命を育てる大切さを子供達にちゃんと教えてあげてほしい、おもいやりと責任感を持って飼育してほしいと心から願います |
教室: | 元6年1組 |
理科室: | 科学部的なものに入っていて そこでシャーベットを作って食べました。 |
プール: | 屋上にあってびっくりしました! |
恋: | 2019年ただいま16歳小学校2年の頃から卒業後今もずっと好きな人が居る 麻梨なのに先生に麻利と書かれた時文句言いながらも嬉しかったなぁ |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |