例)大人になった今、あの時先生が叱ってくれた意味がわかりました。 ありがとうございます! |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白感謝: | 1年生の時の担任の林太郎先生が本当に好きでしたね。先生のピアノが本当に素晴らしくて、楽譜の読めない私は感動しっぱなし。何人から離れても、音楽の授業が楽しみでした。夏休みにオーストラリアへ行っていた先生からエアメールが送られてくるのが楽しみで、35年経った今でも残してあります。私が卒業してから暫くして自死されたと聞いた時は、ショックでした。 |
感謝: | 常に笑って歌っているようなHくん。音楽の授業の時の独特の舞が忘れられません。6年の時に新宿に見にいったスーパーマン、府中の鉄道模型店に一緒に行ったこと。外遊びが上手でない私に気を遣ってもらっていたことは今でも感謝しています。 |
感謝: | 小学生の頃はあまりいい思い出がないが3、4年の時の担任は良かったのは覚えてる |
感謝: | ありがとう |
感謝: | S先生1年半ありがとうございます絶ッ対に今度手紙を書きます |
感謝: | N先生がクラス全員を連れて行ってくれた、1円電車 |
感謝: | 中学生になった今、先生方や友達に助けてもらって嬉しかったです。本当にありがとうございました。 |
感謝: | 三木 恭子先生へ 入学当初から卒業まで見守っていて下さってありがとうございました。もう、定年が近いと思われますが、大好きです! 色々ご迷惑をおかけしてすみませんでしたw |
感謝: | 和太鼓クラブでお世話になった佐野先生・江田先生・和太鼓クラブの親友、ありがとうございました。僕は今、東京の外苑前駅近くにある世界最大級の和太鼓教室TAIKO-LAB青山に通い、発表会に向けて課題曲を学んでおりますが、和太鼓のプロとして活躍できるように尽力いたしますので、ご声援よろしくお願いいたします |
感謝: | 住吉小学校の2000年度卒業生です。 |
プール: | 着替えて、タオル巻いて、校舎出て、50段階段登って(それ以上あるけど)上の運動場のプールまで行ってた。 |
屋上: | 当時は、緑が多く、文字通り緑区にふさわしい風景が見られました。 |
職員室: | 担任 |
校庭: | 旧木造校舎時代 中庭に池があり 池の前は職員室だった 真鍮の鐘がありました |
校庭: | 何か薄暗い地下室があったな... |
教室: | 五十年以上前になります。身体がちぢかむ寒い日も暑い日も、用務員の小父さんが、毎朝用務員室の大鍋で大量のお湯を沸かしてくれました。それをお掃除担当の私たちはバケツで貰いに行きました。「おはようございます」「おはよう」いつもにこにこ優しい小父さんでした。教室に行くと冬の時期は、寒い教室の真中にダルマストーブが置いてありました。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
校庭: | 大きなイチョウの木の下で音楽集会があり、どうゆう訳か指揮者をやった事があります。あの頃は運動会で露店が出ていたのを思い出しました。 |
体育館: | かぎが無くてもがんばれば開く |
伝説: | 先生を論破してるやつがいた |