例)苦労して作ったクレープの模擬店が大好評で楽しかったです。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白文化祭: | 稲荷台小って、ブラスバンドがまだ評価高いですねか |
文化祭: | 片小フェスティバルとアプロの歌 |
文化祭: | 文化祭っていうか、南小フェスティバルならあったよね。学習発表会みたいな |
文化祭: | 1年生最初の遠足が小田急車庫からの善福寺公園でした。今、思えば近くだったんだね。 |
文化祭: | 友達と夢のような時間を過ごせました |
文化祭: | 文化祭という名前じゃなかったけど、学年、学校ごとの発表会があって「ごんぎつね」のミュージカルをしました。小道具や背景の絵もみんなでつくって先生たちもすごく協力してくれてなんだかんだ楽しかった思い出です。ミュージカルだから歌も当時の音楽の先生が作詞作曲してくれて、今もそれが書かれた冊子はもっています。卒業まえにはみんなでプールサイドの壁にごんぎつねの絵を描いたことも覚えています。今も残っているかなー? |
文化祭: | うわー東っ子フェスティバルあったなあ 1、2年生は出し物とかせずに遊ぶだけだっけ? |
文化祭: | 文化祭ではないですが、夏休みの自由研究や工作を毎年展示していたと思います。展示会場は教室だったような・・・ |
文化祭: | えーっとね文化祭は、やっていないけど、学習発表会ならやっているよ |
文化祭: | 吾妻のつどいがなつかしです |
プール: | プールは、みんなで、プールの中を、クルクル周り流れプールをした事も、あったねえ!懐かしい! |
校庭: | 朝休み私が小2の時3、4つ上の上級生と陸上でH.K先生がリレーしようとチームに分かれて中庭を林先輩達と走ったのを覚えています。4つ上先輩の学年は私が卒業までに知っている学年の中で一番レベルが高かったように思えました |
教室: | なんか、先生に向かって、腹立った時とか思いっきりガン飛ばした気がする。 |
トイレ: | トイレは女子のたまり場女子トイレは毎日ぎゅうぎゅう髪の毛直しタイム |
プール: | 見晴公園まで往復した、団塊ジュニア世代のプール授業。意味が解らなかったw。 |
体育館: | 基本的に正門からはいることはない |
プール: | いっぱい虫がいたりコウモリがいたりして追い払うのにめぇいっぱいでした |
職員室: | いいよねー |
校庭: | 乾燥して風が強いとスプリンクラーをやって最初はワーっと遊んでたけどいつしか遊ぶの禁止になった。あの水を切る「パシュパシュ」って音が懐かしい。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |