大阪市立扇町高等学校の文化祭

懐かしい大阪市立扇町高等学校の記憶を共有するページです。

大阪市立扇町高等学校の文化祭

開催された楽しい文化祭や学園祭、そこで行った催し物一生懸命準備した記憶を書き残してみませんか。

大阪市立扇町高等学校
文化祭の思い出

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例)学園祭でやったライブが忘れられません。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

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うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の高校の文化祭での記憶

文化祭での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 文化祭での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
文化祭一年生の時の文化祭はあまり記憶がありません。2年生になって初めて「科学部」なるものの活動が認められ部員6人でスタートしたものの何を文化祭でやろうかと、さんざん悩み鉱石の分析試験管を並べたり、図化して模造紙を教室に張った事があります。しかし部員からあまりに地味と意見が出てならば「紙粘土で火山を作りペンキや絵の具で彩色し、真ん中に火口を作り噴火を模擬する。」が採用されそんな時に神の助けか、白衣が届き学者気分でそれを着て火山活動を再現させる為、アルミ粉やさまざま調合しミニチュア火山を噴火させ好評を得た文化祭だった遠い学生時代の思い出です。薬品を調合することも火力を使うことも、電気発火させることものびのびとやらせてくれた、今では「危ない、危ない!!!」と過保護すぎる世の中なのに、私の時代は「発想」と「研究」を本当に大事にしてくれた「花工」でした。タイムマシーンがあるなら「戻りたい。」楽しい学生生活でした。
文化祭学校祭は現在では2日間だが、1998年(平成10年)は学校の校舎増改築で7月18日(土曜日)1日のみの開催となり、翌年1999年(平成11年)からは(1999年は)7月17日(土曜日)、7月18日(日曜日)と2日間の開催となった。(2000年(平成12年)は7月19日(水曜日)、7月20日(木曜日・海の日))。
文化祭ザベストテンを真似して披露したっけ。バック転が見事に決まった!
文化祭輝晶祭!
文化祭伴千世さんの白の浴衣姿、女神降臨。
文化祭生野高校と姉妹校であったので定期戦が行われていました。
文化祭最初のエレキバンド
文化祭午前は吹奏楽部や合唱部・その他有志のパフォーマンスを見て、午後は有志生徒やPTA会員の方々などの模擬店で買ったものを食べたり授業・部活などで制作した作品の展示を見たりして巡った。
文化祭みづのきマジック
文化祭1975年のPOWDERのライブ音源保有してます(音質悪し)

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
怪談3階の階段が途中で壁になってるのが不思議というか不気味だった
我如古昭恵さん好きでした。
教室購買部と称して生徒会会議室になってた。
教室1年生の時、最初は出席番号順で座っていましたが2月期に僕のクラスは席替えがあり座りかたをどうするかで話し合いがありました。イスとりゲームみたく早いもの順、なんて案もありました。
好きな人が居たが告白できなかった
体育館更衣室で良くタバコを吸ってました。
卒業式9期生の卒業式、クラッカーを鳴らすタイミングを間違えた人たちがいて、ぐだぐだになったのもいい思い出?
席替えして初めて後ろ振り向いた時、あの子に一目惚れした。一瞬時が止まり、私の呼吸も止まった…気がした。後にも先にもあれが最初で最後。
謝罪修学旅行で阿蘇草千里の大自然の中で友だち数人と並んで立ちションしました。50年前の話です。ごめんなさい
卒業式すべり止めの有名私大の合格は決めていたが、“本命”の国立大の二次試験が間近という状況ゆえ、当初は余り感傷的にはならなかった。しかしある一場面がそれを変えるきっかけに…。朝の登校時から粛々と式典への段取りが進められて廊下整列を終えた時に、体調が優れずも証書を授与される(初代)校長先生が横を通られ、我々一人ひとりに『おはよう。今日は卒業おめでとう。』と声を掛けられたのだ。その温かい言葉を境にどんどん“名残惜しく”なった。その上で卒業式では、この3年間の不良振りにも関わらずここまで来れたことへの謝罪と感謝の気持ちや、4月から大学生に相応しい成長を遂げねばとの“決意“から、身が引き締まる思いになった。そして式後にはこのHRをもってクラスメイトが全国の大学に散らばっていく淋しさをも覚えたが、いつか再会して「しっかりやっている姿」を見せられる日が来るまで頑張らねばと思いつつ母校から旅立った。(卒業から28年。まだ5名の仲間と再会できていない。)


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