茨城県立岩井高等学校の文化祭

懐かしい茨城県立岩井高等学校の記憶を共有するページです。

茨城県立岩井高等学校の文化祭

茨城県立岩井高等学校にいたときやった楽しい文化祭や学園祭、そこで行った催し物一生懸命準備した思い出を書き込んでください。

茨城県立岩井高等学校
文化祭の思い出

※ユーザ名と削除パスワードは必須ではありません。

例)苦労して作ったクレープの模擬店が大好評で楽しかったです。










[注意]個人を特定できる投稿・誹謗中傷・その他不適切な書き込みは削除いたします。またそうした不愉快な書き込みを見つけた方は「問い合わせ」より知らせていただければ削除いたしますのでご協力よろしくお願いいたします。

その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の高校の文化祭での記憶

文化祭での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 文化祭での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
文化祭女子がファションショーをやって舞台が落ちて下着が見えた
文化祭一年生の時の文化祭はあまり記憶がありません。2年生になって初めて「科学部」なるものの活動が認められ部員6人でスタートしたものの何を文化祭でやろうかと、さんざん悩み鉱石の分析試験管を並べたり、図化して模造紙を教室に張った事があります。しかし部員からあまりに地味と意見が出てならば「紙粘土で火山を作りペンキや絵の具で彩色し、真ん中に火口を作り噴火を模擬する。」が採用されそんな時に神の助けか、白衣が届き学者気分でそれを着て火山活動を再現させる為、アルミ粉やさまざま調合しミニチュア火山を噴火させ好評を得た文化祭だった遠い学生時代の思い出です。薬品を調合することも火力を使うことも、電気発火させることものびのびとやらせてくれた、今では「危ない、危ない!!!」と過保護すぎる世の中なのに、私の時代は「発想」と「研究」を本当に大事にしてくれた「花工」でした。タイムマシーンがあるなら「戻りたい。」楽しい学生生活でした。
文化祭展示は美術や書道・家庭科などの授業で制作した作品や海外留学した生徒のレポートなどがあった。
文化祭1975年のPOWDERのライブ音源保有してます(音質悪し)
文化祭当時の文化祭でパン食い競争がありました。同級生の地元のパン屋のパンが使われてましたが、またあのパン屋のパンが食べたい。割と美味しかった。
文化祭1年生の時鈴鹿市民会館へツービートがきておもしろかったこと、3年生の時には杏里がきて、素敵な歌を聞いたこと忘れられない思いでです
文化祭ESS クラブで英語劇をしました。
文化祭入学して朝礼が無い。文化際の前夜祭のフォークダンスのパートナーを探さないといけない。パートナーチェンジが無いので必死でした。
文化祭提灯行列
文化祭毛嫌いされて常に存亡の危機にあった軽音部だけど、文化祭では「軽音部ライブやります」って宣言すると執行委員会がほっと胸をなでおろす存在

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
職員室卒業して担任の春日先生や体育、水泳、柔道での岡田雅先生と英語の竹内先生と書道の真理先生とお会いしました❗
感謝準特の7組の人は、何人か集まったりしていますか
校庭グラウンドにあった井戸は今もあるのかなぁ?
教室追記。カードになり、は、カードをはさみ、のこと。
記録森田健作さんの映画の撮影に校舎が使われた
校庭改築前の校庭にあった小さな池は、底なし沼と信じられていた。
下駄箱卒業する年のバレンタインデーに、好きな先生の下駄箱にチョコレートを入れた思い出があります。本当は手渡ししたかったのですが、先生がお休みだったので(笑)
職員室毎週のレポート提出で緊張してました。規律が整っているのかどの机もキレイでしたね。
トイレまだ「かめ」使っているのかな?
A中学三年生の時一緒だったY.S(旧姓)さん。とても可愛い人だった。S高校に行った私は高校時代一度だけ彼女に思い切ってグループデートに誘ったことがありました。本当に必死な思いで打ち明けました。それを折角承諾して頂いたのに当時種々な理由で実現できなかったことは今もってとても残念でならないです。 あれから53年経ちつい先日ご実家のあったS町に行きましたらそこはもはや取り壊された跡でした。53年の歳月は様々な想い出を変えてしまっていますが、S38年の15歳の頃からY.Sさんが好きだったことは今も変わらず心の中に残っています。彼女が今もどこかで幸せでいて下さることを切に願っています。


ページの先頭へ