穴水町立岩車小学校の校庭

懐かしい穴水町立岩車小学校の記憶を共有するページです。

穴水町立岩車小学校の校庭

穴水町立岩車小学校の校庭にあった物など楽しかったりがんばった想い出を書き込んでください。懐かしい思い出を是非皆さんと共有してください。
例)お昼休み校庭ではカン蹴りや鬼ごっこ等どんな遊びをしましたか?
  朝礼で体調不良になったり、失敗したりしたことありますか?
  体育の時間や運動会ではどんなスポーツや運動をやりましたか?
  

穴水町立岩車小学校
校庭の思い出

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例)夜になると校庭にお化けが出るといううわさがありました。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の校庭での記憶

校庭での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 校庭での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
校庭グーグルって最近の母校見ましたが、面影全くなしでさみしい。
校庭昭和52年度卒業生になるのかな?(41年生まれです)けんこうやま懐かしいです^^滑り台ありましたね。卒業アルバムの集合写真をけんこうやまで撮ってました。
校庭1985年の春卒業生です。確か
校庭保育園の運動会が開催されていた。
校庭5年生の時の担任の先生が雨男でした。なので、運動会の練習初日から雨がとてもふってみんな面白おかしく笑っていました。この笑顔が見れないのは悲しいです。
校庭回旋塔(かいせんとう)という遊具があって、低学年には怖くて敷居が高かった。3年生くらいで遊べるようになり上級生の仲間入りが出来た気分でした。今は危険な遊具として廃止されたのでしょうね。
校庭3、4年生あたりでグラウンドの工事をしてたなぁ
校庭柳の木と思いやりの池のところに校舎できるの知った時悲しかった
校庭はだし運動
校庭田植えって、中学校側と道路側の気温差が酷くなかった?

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
給食給食メニュー
教室黒板消しをラーフルって呼んでたよなあ
怪談教室から喋ってもいないのに声が聞こえた
告白告白
好きな人が出来た。
保健室保健室でわちゃわちゃしとった頃が懐かしい。あれからもうそろ3年が経ちます。今思うと、たくさんの大人に迷惑かけて、今思うとすごく幼稚だったなと感じた
職員室遠くから通ってきているというので、学校帰り担任の先生が送ってきてくれた事がありました。お家の見える山の上まで来て先生あそこ僕のうちと言ったら帰って行きました。
理科室休み時間にフラスコとかを眺めてた記憶が……(o^^o)
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。
修学旅行で沢山の人が好きな人に思いを伝えていたなぁー


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