例)放送装置がおいてある。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白職員室: | 我々の頃は、薄暗い木造の旧館に職員室がありました。(’60卒) |
職員室: | 常にコーヒーの匂いが漂っている。 |
職員室: | パワハラ教師がいた |
職員室: | 楽しかってけど、校舎もないので想い出だけですね。 |
職員室: | 校庭に整列していると、左前横の職員室から先生がガラガラと扉を開けて出入りするのを皆で注目していました。 |
職員室: | 中学以降とは異なり、滅多なことがなければ中に入ることができなかった。なので、なんだか特別感があってたまに窓の外から先生同士がお土産交換をしているところなどが見えると有名人のプライベートを覗き見たような気持ちになった。 |
職員室: | 職員室の前の中庭に地下室に行く階段がありました。何回か階段を降りて忍び込んだが怖かった |
職員室: | 当時は教師と生徒の仲が良くて、よく休憩時間は職員室に遊びに通いました。 |
職員室: | 骨皮スジコって感じの小野寺カツコってババー教師はすぐ生徒を叩くヒステリー暴力教師でサイテーのクソババアだった。今ならとっくに懲戒免職もん。もう何十年も前なのでとっくに死んでるだろうけど。沢田幸男って教師も陰険でいじわるで保護者の前では良い教師ぶる最悪なヤツだった。クラブ活動の時、トイレに行く途中でちょっと走っていたら早速ケチつけてきて騒ぎながら行くならトイレに行くな!と理不尽な事を言われたせいで限界までトイレを我慢していた熊谷まきさんはお漏らししてしまい気の毒でした。沢田のせいで。 |
職員室: | いつも、先生方が居て安心でした |
恋: | 担任の先生好きでした |
恋: | 元彼のDが、目の前で浮気しやがった。そのせいでやみやみ |
校庭: | 子供会のバーべキュー。 |
屋上: | 今では、考えられないけど、遊び放題でした。 |
図書室: | 結構離れた場所にあってスノコで渡ってたどり着いた思い出。 |
給食: | 給食の時間は苦手でした。パンが主食だったからです。鯨の唐揚げは美味しかった。ミカンはほぼ毎日出てました。 |
給食: | 残しが、おおかったです。 |
校庭: | 校庭の片隅に、赤土の土俵がありました。 |
教室: | 山崎正男先生会いたい あの頃に戻りたい |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |