例)「失礼しまーす」と言わなければ入らせてもらえなかった。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白職員室: | なかなか汚い人間の集まる場所だった だってろくな教師しか居ないもん |
職員室: | 物理の○町○明 先生に会いた。一寸法師の様に小柄な先生でしたが、声も大きくとてもユニークでクラスの統率力はピカイチ。今思えばリアル金八先生でした。 |
職員室: | 今、何をしているのか、知ってる人がいたら教えてください。 |
職員室: | その父の名前は 毛利清英と 申します。 |
職員室: | 放課後、よく1階の科務室に行き先生達は親切に仲良く話をしてくれました。いい先生達でした。仕事の疲れも談笑することでなくなりました。特に冬、談笑することで寒くても帰路、心は温かった。 |
職員室: | お世話になった先生ばかりで、1日1回は寄っていたなぁ笑 |
職員室: | 職員室の前に大きな木の箱の灰皿があった |
職員室: | 1年生の時、初めての中間試験が行われる時、何をどう勉強すれば良いのか分らず、近所の先輩に聞きに行ったことがあります。必死でした。結果を聞きたいでしょう??試験後。担任の「五味先生」全員の前で成績を知りたい奴は、職員室に来い。と言われたので放課後恐る恐る聞きに行った所、一言「お前53ばんめだな」怖い顔をしてギロリと見られガックンしょんぼり・・・・ところが翌日職員室に呼ばれ「ゴメンゴメン」「お前の成績はクラスで1番だ!」「生徒名簿が渡部の{わ}だから53人目の生徒番号を間違って言ってしまった。」・・・・笑い。そこから3年間1番か2番盲腸で入院して3番目に成績だ落ちたり。本当に楽しい学生生活でした。もう一度あの頃に戻れるなら戻りたい。そのときは見えなかった今を学習しなおしをしたい。もうすぐ70歳。お世話になった「五味先生、木村先生」ありがとうございました。 |
職員室: | 夏休み中、クラブ活動をサボった5~6人が職員室に呼ばれ横1列並んで頬を叩かれた。今時なら問題か?50年前は当たり前、だってサボった方が悪かったので。 |
職員室: | 印象に残る先生方(昭和30年代); (1)A先生;生物の先生、これがいわゆる原形質いうものであるなんて唾を飛ばしながら用語を力説説明した。一番前に座っていた私はしばしば唾の攻撃を受けた。 (2)ぐあいちゃん:古文の先生。先生の本名は忘れたが、どうしてか知らないが、皆から 具合チャンと呼ばれていた。特徴のある声で古文を読み、とても愛嬌があったので皆に好かれていた。 (3)C先生;国語の先生、授業が始まるとすぐ、ショートの漢字の読み書きのテストをした。きっと皆が漢字を覚えていなかったからだと思うが、結構これで漢字を覚えたのだろうと思う。この先生、ある時、これこれはしなくてよいと指示した。学生の一人がしなくてもよいのだから、してもよいのですよねと言ったら、しなくもいいんだと強い口調になり、その後エンマ帳を出して、‘誰だお前は、名前をいえ’といって名前を書き込んでいた。その後しばしば何か印象がある学生がいると、すぐエンマ帳を取り出していたので皆に怖がられた。 (4)D先生: 3年の時の国語の先生、‘いい国だなー大和の国は‘などと大声で本を読みあげていた。ただし僕は国語の時間あまり好きでなかったので、別の教科の参考書を見ていることが多かった。回ってきた先生に見つかったが、受験勉強は大変だねといってよく見逃してくれた。 (5)N先生:英語の先生。1年と、3年で教わったが丁寧なわかりやすい授業と、ひとつの単語が出るとは派生語も例題も詳しく説明してくれた。外見も大変穏やかで、高校では当時一番感じの良い先生だった。一年の時、夏休みの補習授業で、ちょっと褒めてもらいそれからは英語がかなり好きになった。その後も同窓会でお会いしたことがあるが先生の穏やかさ、あたたかさは少しも変わってなかった。 |
文化祭: | 第二期生 |
職員室: | 放課後、よく1階の科務室に行き先生達は親切に仲良く話をしてくれました。いい先生達でした。仕事の疲れも談笑することでなくなりました。特に冬、談笑することで寒くても帰路、心は温かった。 |
校庭: | 運動場の東半分は高松高校のグランドだった。 |
恋: | A中学三年生の時一緒だったY.S(旧姓)さん。とても可愛い人だった。S高校に行った私は高校時代一度だけ彼女に思い切ってグループデートに誘ったことがありました。本当に必死な思いで打ち明けました。それを折角承諾して頂いたのに当時種々な理由で実現できなかったことは今もってとても残念でならないです。 あれから53年経ちつい先日ご実家のあったS町に行きましたらそこはもはや取り壊された跡でした。53年の歳月は様々な想い出を変えてしまっていますが、S38年の15歳の頃からY.Sさんが好きだったことは今も変わらず心の中に残っています。彼女が今もどこかで幸せでいて下さることを切に願っています。 |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |
卒業式: | 情報処理で1年留年したけど良く卒業出来たと思う。今では開発者で仕事しています。 |
感謝: | ラグビー部顧問の先生に感謝 |
運動会: | 1年の時、運動会があった。2年、3年は就職試験が早くなったとかで無くなった。 |
トイレ: | トイレの入り口のドアがなぜかウエスタンのドアだった、勢いよく押すと跳ねかえって危険でした。 |
トイレ: | 3〜6組は、男子クラスやもんな、前通るの恥ずかしかったもんな |