例)子供心に安易な気持ちでいじめをしてしまいました。今では本当に後悔していますAさんごめんなさい。 |
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学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白謝罪: | 小学校の頃じゃなくて今の事だけど未だに引きずって自己満で迷惑掛けててごめんなさい…。 |
謝罪: | o先生、k先生.h先生、私はあまり宿題を出していませんでしたけど5年から変わりました。性格も暗かったけど5年になって変われたのは先生達のおかげです! |
謝罪: | ごめんねkくん転校までにごめんねっていえなかったねほんとにごめんなさい |
謝罪: | 今になって昔こと思い出した、今年の夏頃から、それまで仕事で忙しいくって、後、おばあちゃんも亡くなって、それから、会社でくひって言われたし、地震もあったり、お母さんが病気になったたり、お父さんが事故にあったしたから。今は寂しくなった。 |
謝罪: | あの時、勝手に怒ったり迷惑をかけてしまってすみませんでした。 |
謝罪: | ランドセル叩いちゃった。ごめんね |
謝罪: | あ~寂しいがった。お母さんに怒られたし、買い物に行ってない。 |
謝罪: | 何人かの男の子からアタックを受けてるけど私好きな人がいるのでほんとにごめんなさい…。 |
謝罪: | あいてあるからね。 |
謝罪: | 4年生の時担任だったK(女性)先生。当時は、ご迷惑おかけして本当にごめんなさい。今は、20年ほど前に一戸建てを購入して阿倍野区に、お袋と住んでいます。親父は、30年前に亡くなりました。60歳になった今でも独身人生まっしぐらです‼️いつかまた同窓会でお会いできる事楽しみにしていますよ!いつまでも、お元気で、命ある限り見守って下さい。ありがとうございました。 |
トイレ: | 2年生のトイレは男子トイレと女子トイレの入り口の近くの壁が繋がっていました |
教室: | 木の机といすが重たかった。蓋を開けて 中に本やノートを入れた記憶があります。蓋を開け閉めするときに指をつめて よく血豆を作っていたのは私だけではありませんでした。 |
体育館: | 1年生の時に神奈川フィルハーモニー管弦楽団が来て夢コンサートをしてくださいましたね。鍵盤ハーモニカを吹いたり、先輩方はリコーダーを吹いてましたよね〜。 |
怪談: | 田鶴野校区でドッペルゲンガーが出る |
音楽室: | 音楽室に行くまでの通路が 何気に怖かった(^_^;) |
校庭: | 皆でお泊まりキャンプみたいな行事がありました 飯盒炊飯で炊いたご飯とカレーを食べたりした |
告白: | 好きでした。実は野球部の練習をこっそり見てました。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
図工室: | ほとんど記憶ない |
給食: | 給食が普通に美味しかったでふ。 |