例)お弁当おいしかった。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白運動会: | 給食の歌が忘れられない |
運動会: | 応援席で後ろから女子数名が私の赤白帽子を取ったり投げたり面白おかしく格好の的となっていた思い出。母親に現場を見てもらいたくて後ろから見ててと頼んでる時に限って そいつらは何も尻尾を出さなかった |
運動会: | 地区対抗リレーで足の速いお父さんお母さんを○○君のお父さーん!○○ちゃんのお母さーん!がんばれー!!と地区名の入った旗を大漁旗のように振って応援するシーンは今でも目に焼き付いています。 |
運動会: | 小学校最後の運動会で負けて悔しい((ヾ(≧皿≦メ)ノ)) |
運動会: | 16年ぶりの緑組優勝 |
運動会: | 学年別で踊りをやって、ちょっとした黒歴史みたいなことになってる人もいるようです。獅子舞もあって、1ヶ月前くらいから練習始めて、2人1組で、前側が片手で獅子の頭を持って、後ろ側が舞ってるあいだはずっと前傾姿勢で片手を後に回して尻尾を適度に動かすっていう結構重労働なやつですね。伝統だから受け継いでいかなきゃいけないのは分かってるんですけどね。 |
運動会: | ヤッターマンの歌を踊ったなぁ… |
運動会: | 最後のリレー心にしみるよね |
運動会: | 赤 白の勝ち負けは毎年毎年順番...? といううわさがありました |
運動会: | 2024年の5年生のソーラン節 |
校庭: | 私が小6の頃に砂から芝生の校庭に変わりました |
恋: | yuuuuuuuuuuuuaas |
告白: | 今日会えるのかな、心配だな。 |
屋上: | 屋上で50m走のタイムを計った記憶がある。 |
教室: | 今あるのかなぁ?仲良し学級。確か、二階の階段近くの教室。掃除担当になったこと合ったなぁ? |
教室: | 木造校舎があった。床の木目が好きだった。学校の七不思議もあってちょっと怖い場所でもあったけど。 |
体育館: | 体育館なんて洒落た呼び方ではなく「講堂」だった。当時、多動で落ち着きがなく所謂「発達障害児」であった自分は担任の中年女性教師から当然の如く嫌われ、田舎特有のキツいいじめの渦中にあっても完全にスルーされていた。そんな中、初めての「学芸会」。クラスの出し物は「花さかじじい」のお芝居だったが、私は裏方すらやらせてもらえず、練習時も校庭に追い出されていた。発表当日、おそらく保護者なども観に来て賑やかな声を聴きつつ、講堂の裏手の百日紅の木にもたれてひたすら時間を潰した。母には学芸会の話はしなかったので、来る事は無かった。こっそりくすねた小道具の、金の折り紙の貼られた紙の小判をためすすがめつ眺めたりして、ただひたすら長い長い暇を潰した。もたれた埃っぽい壁の背中越しに、大勢の拍手と笑い声が響いていた。風が吹くと頭上からひらひらといくらでも舞い散ちて来る細かなフリルの小さな小さな桃色の花弁を、今も鮮明に覚えている。穏やかな日差しの、良く晴れた日だった。 |
飼育小屋: | 昔の話ですが、山からイタチが道路を渡ってきて食べられてしまいました。当時ショックだったので鮮明に覚えています。 |
プール: | 水泳部 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |