例)音楽室は夜になると誰かがピアノを弾いているという怪談話がありました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白音楽室: | シューベルトだったかな……音楽家の似顔絵がこれだけ2枚あって、中島先生が『間違って同じの作っちゃったんですよね〜』って言っていた記憶 |
音楽室: | 中山先生ひどい |
音楽室: | 音楽室のピカピカの椅子の取り合いをしていた |
音楽室: | 旧音楽室も含めて音楽室がふたつある |
音楽室: | 音楽は確か大津先生。眼鏡をかけて頭が薄い?イメージでしたよ。でも大津先生に推薦されて少年合唱団に入りました。お陰でレコード大賞に出たこともありました。 |
音楽室: | はぁ~♪ 花と緑の御所園 良い子~が学んだ70年! |
音楽室: | 笑笑 |
音楽室: | かなり広かった |
音楽室: | 午前中の音楽の授業で先生がレコードを再生するとき何故か音量が大きくなっていて再生開始で爆音になり先生が慌てて停止していた。 |
音楽室: | 鶴原先生、楽しい授業だったなぁ。 ソプラノの声の出し方は、頭のてっぺんから声を出すみたいに…とか、イ〰とかエ〰は口を両横に『にィ~』って思いっきり引っ張るみたいにして…とか、しょっちゅう言われてましたね。 どうされてるのでしょう… |
卒業式: | 私達が最後の卒業生でした。卒業を待たずにお引越しなさった方も沢山いました。尺別の町が無くなってしまうことに、同級生と離ればなれになることに、とても悲しい卒業式でした。見知らぬ町の転校に不安で、辛く悲しい毎日でしたね。 |
屋上: | 小3のころ、いたずらで現地の警察官の子供が銃を発砲して、それが屋上の室外機に当たったことがあった。当時はテロリストの襲撃だと思われてしばらく休校になった覚え。 |
校庭: | 月曜日と金曜日には朝会がありましたが |
トイレ: | 1993年?にちびまる子ちゃんのまる子大パニックが平日の夕方に再放送された週の記憶。主人公のまる子が学校のトイレの鍵が壊れてしまい閉じ込められてしまう内容を観たのかトラウマになってしまった女子児童が居たみたいでした。中学年教室の2階の女子便所で鍵を掛けずドアが少し内側に開いたまま使用していた女の子が何人か居ました。しかも低学年教室の1階の女子便所ではドアを閉めずに和式便器にしゃがんでおしっこをしていた女の子が居たのでした。廊下通りがかりに見たときは正直びっくりしました… |
恋: | 今は、転校して違う小学校にいるけど、1年生の時好きな子がいたけど、転校する時5人に、告白されました |
卒業式: | 2年前の卒業式で、山◯さんのお母様が綺麗だった^ ^ |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
給食: | あげパンやカレーは人気でした。時々デザートが2種類あり、選んで食べる事もありました。 |
感謝: | 渡邉先生と本間先生と土屋先生と星野先生と伊丹先生に出会えたことに感謝です |
謝罪: | 典子さんへ、横浜ドリームランドの件は今でも忘れられません。友達が仕組んだ手紙であった事は後に知らされました。当時は状況が全く分からないままその場から立ち去ってしまい、小さな少女の心を傷つけてしまいました。その後戸塚のお祭りで偶然再会しましたが、過去の後ろめたさがあり、2度も立ち去ってしまいました。ちゃんと話をすればよかったと今でも後悔しています。出来る事なら会って謝罪がしたい。 |