長野県小諸実業高等学校の音楽室

懐かしい長野県小諸実業高等学校の記憶を共有するページです。

長野県小諸実業高等学校の音楽室

長野県小諸実業高等学校の音楽室での懐かしい記憶を書き込んでください。古き良き想い出をぜび皆さんと共有してください。
例)丑三つ時になるとベートーベンの絵が丑三つ時になるとなど怖い話はありませんでしたか?
  音楽の授業ではどのような楽器を習いましたか?
  音楽の先生には変な口癖はありませんでしたか?
  音楽室にあった変わったものは?
  

長野県小諸実業高等学校
音楽室の思い出

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例)クラリネットがありました。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の高校の音楽室での記憶

音楽室での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 音楽室での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
音楽室選択科目は音楽だったのに、音楽室のこと覚えてない。なんで?真面目に勉強してへんかったから(*≧∀≦)
音楽室音楽室の思い出がありません。2年生になって新校舎ができたときは芸術?の科目は美術を専攻していたのであまり音楽室には行きませんでしたね
音楽室部活だ思い出いっぱいです。アフリカンシンフォニー!
音楽室吹奏楽部の部室でした。顧問の先生は確かサンチョっていうあだ名でしたよね。懐かしいな。9月いっぱいで定年退職。時間もあるし、みんな集まってみたいよね。
音楽室最初は、応援団所属の吹奏楽部として発足するも楽器が揃う迄は、応援団として練習(空手の型等)させられた。
音楽室吹奏楽部の思い出
音楽室秋本先生
音楽室毎日練習したなぁ。
音楽室部活がコーラス部でしたので、毎日通ってました。多分私達が在校した時が全盛期?で関西合唱コンクールで銀まで行けました。もう少しで全国大会でしたが人数が少ない中先輩方のご指導で沢山の思い出があります。夏は吉野山で1週間合宿ありました。毎年定期演奏会も開いていました。私達が卒業後数年で廃部になったとの事でした…
音楽室軽音の後輩がピアノの練習に来てて、ペダルの踏み方を教えてあげました。竹上、ピロシ、元気にしてる?

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
文化祭文化祭、体育祭
職員室吸い殻の量が取調室
下駄箱個人別に、南京錠が渡され入学時は、毎回鍵を掛けていました。カギを忘れると上靴が履けない。最後にはかけなかったけど
記録看護科の同級生からひどいいじめを受けた、自分は途中で学校を辞めてしまい苦しい思い出を植え付けられた。その人は性格きついから看護師にあってるわ。今頃ヒィヒィ言いながら働いていると思うとざまあみろって思う
図書室冬休み前日に保育園で行った読み聞かせ
教室机に座って右側が廊下左を見ると山な教室が多かった
そーですねー
怪談よしだらしい
文化祭校内のあちこちで、色々な催し物が行われていた。その中でも校庭の中に茶室を設けて、茶会が行われた。天幕を開けて覗き込むと、彼女がお茶を飲んでいた。ただ「ぼーつ」と見つめていた。こんなことの繰り返しだった、あの頃。思い出しては懐かしい。
伝説葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね!


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