例)夜になると飼育小屋にお化けが出るといううわさがありました。 |
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学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白飼育小屋: | 今はウサギを五匹飼ってます |
飼育小屋: | 飼育小屋がない |
飼育小屋: | ぴょんたよく脱走してた |
飼育小屋: | うさぎのゆきちゃん |
飼育小屋: | 兎2匹しか飼育小屋では飼っていませんでした |
飼育小屋: | 人口孵化器でかえすことに成功したニワトリがいました。孵化器は玄関脇の用務員室の前に置かれていて児童たちが観察できたため、生まれる前から知っていたそのコにただのニワトリ以上の愛着を持っていました。希望した飼育係の役得で、他に居たチャボの卵をもらって帰ったりしてましたが、こちらはおいしくいただきました。 |
飼育小屋: | 一年生の時、ウサギが、自力で、脱走したと、うわさになっていました。 鍵を閉め忘れたとの事でした。 |
飼育小屋: | 十姉妹とセキセンインコがたくさん居て、お世話する係に入ってました。 |
飼育小屋: | 自分が在学中に、ウサギとニワトリが30羽以上いて、世話が大変だった。なぜ今はもういなくなっちゃったのかな~。 |
飼育小屋: | 2017年11月23日今は、何にもいないよー!なんでかな? |
記録: | あいさつはやけに褒められたね。あいさつは |
恋: | 出来ればみんなに会いたいなー |
体育館: | 昔のことですが2月3日に体育館で節分大会がありました。全校でクラス毎に代表者が退治したい心の鬼の発表をしてそのあと学年別でステージから落花生が撒かれて拾い合い。中にはチョコレートも混ざっていたので拾った子は大喜びでした。今の時代もやっているのかな? |
プール: | 泳いでいるときも底に虫がたくさんいました。そして、水が冷たい。 |
校庭: | 秋から、冬になると、空気は、乾燥して、学校の校庭には、毎日のように、上州名物の「からっ風」、赤城おろしが、吹き荒れて、校庭に砂ほこりを、舞い散らしている。 そんな、赤城おろしの砂ほこり撃退に、活躍していたのが…、あの時代には、ハイカラで、画期的だったのが、校庭に埋められていた、丸い蓋の付いた、スプリンクラーでした。 子供心に、スプリンクラー作動時には、その丸い蓋が、上に開いいて、一生懸命に、校庭に水を撒き散らして、砂ほこりを、やわらげようと、お仕事をしているのに、子供心に、空いている蓋丸い蓋の上を、踏んづけて、良く飛び乗って遊んでいた思い出がありますす。 その事で、良く、担任の先生に、怒られた事を、今も思い出します。 しょうもない悪ガキだったと思います…。 |
感謝: | 中学生になり先生が自主勉強しろよーと優しく言ってくださりありがとうがざいます。 |
保健室: | 保健のせんせー、優しかった〜 |
記録: | 東小学校の校歌のオルゴール音源が卒業式の親の待機時に採用 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
給食: | 小運動会の給食は、マーガリンを塗った食パン二枚に、ハムを挟んだ切っていないサンドイッチで、ご馳走だった。 |