修学旅行が東京、江の島、鎌倉だった貧しい時代のこと、旅館で食べるコメを、量は一合程度だと思うが、全員が持って行った時代があった。ほとんどがバスの移動であった。宿泊は江の島の海辺の二見旅館であった。夜は皆がうるさくなかなか寝付かれず、先生もよく様子を見に来ていた。一人が先生に向かって枕を投げ、それにつれて数人が枕を投げ合った。その後先生がほうきをもって現れ、枕をしていない生徒の顔をそれで掃いていた。それでも先生が居なくなるとまた枕を投げ合っていた。訪れた先の事はあまり覚えていないのに、こんなことを今となって思い出す。あの頃のわんぱく生徒は今どうしているのだろうか。 夏休みは最も楽しみな行事だった。宿題さえなければ最高だった。朝から夕方まで、山や川へ行き、思いきり遊んだものだった。ナイフは必需品だった。これで多くのものを作った。仲間と一緒に、山では藤のツルを切り集め、木の枝にハンモック上のすみかを作ったっり、竹トンボや釣り竿も自分で作った。今の時代なら親が危ないからと言ってナイフは持たせないでしょう。宿題は毎年やり切れず、いつも先生に怒られるのが常でした。いつも夏休みが終わる頃は、来年はしっかり宿題やろうと思ったものですが、全く実行できず、毎年その繰り返しでした。でも本当に楽しい小学生の夏休みでした。 今では小学校でも英語を学ぶ時代になっているが、私が5年生だった頃はせいぜいローマ字を習う程度でした。なぜだかわからなかったが ローマ字は担任の先生ではなく怖い小島先生に教わった。いつも竹のムチを持ち、ローマ字の文を読めない生徒がいると、オイ兄ちゃんどうしたんだと言って机をムチでたたくのが常だった。皆が怖がり、ローマ字の文をいやおうなしに覚えさせられたこと思い出す。それだからといって中学校に入ってから、英語が出来たかというと、そうでもなかったような気がする。しかしアルファベットを早く読むのには多少役に立ったのだろうと思っている。あの頃は外人なんてほとんど周りにはいない時代だった。 小学校2年生のときかなり年配の渡辺先生という女の先生に教わった。授業に集中できずおしゃべりしていると、チョークが飛んできた。それをよけるとまたすごく怒られた。
又クラスに不良っぽい子がいて、学生服の袖に手を通さず、シャツの上から学生服をひっかけ、やくざの格好をしていたため、先生に学生服の両手を縛られ、動きが取れ無くなって泣いていたこと思い出す。今は学生服を着る子はいないからこんなことないでしょうが。
この先生授業が終わって掃除が終わり、帰る前には一人一人に国語の本の後ろにある漢字の表を出させ、それは何と読むかと指さし、すべてできた子を順に帰すということやっていた。僕はいつもやり直しをさせられ、帰りが一番遅かった。でもこのおかげで、そののち明日は早く帰ろうと思って、家で寝る前にちょっとだけ国語の本を開ける習慣になった気がする。
昭和26年、3年生の時の担任は窪山先生だった。その先生は、雪が降っても、他の組がやっていた雪合戦をやらせてもらえなかった。雪玉が顔にあたって、けがをしたことがあり危険だからということだった。その代り、授業が終わる1時間前には、机を後ろに運び、教室にチョークで土俵を描き、片足相撲をさせてくれた。これは片足を上にあげ、その足を手で持ち、残った片足と片手で相手と押し合いをして相手を土俵の外に押し出した方が勝ちという競技であった。背の小さい人から順番に出て対戦した。もちろん男女別々に行った。これで体が結構暖かくなった。その時以来、冬の寒い季節の3年生が終わるまでたびたびこの相撲をさせてくれた。こんなことを今の時代にしたら、きっと他の先生からも父兄からも授業を犠牲にしてなんだと非難されることでしょう。今思い出すと、よい先生だったし、こんなことでクラスもまとまったし、よい時代だったと思う。 昭和28年ごろで5年生だったと思うが、担任はお姉さんのような美しい溝口先生だった。
教室は8人程度の班に分けていた。当時教室は50人弱程度いたから6班程度があったと思う。国語の本を班ごとに読ませ、読み間違ったら次の人が読むというやり方で、各班にどのくらいの行を読むことが出来たかを競争をさせ、一番負けた班がその日の教室掃除を担当することになっていた。当時花菱アチャコや横山エンタツという喜劇スターがいてよくアジャーパーなんて言葉がはやっていた。
読み間違えるとアチャー!やアジャーパー!なんて言って他の人を笑わせたりしたものです。このころ今ではフウテンの寅さんの言葉で有名だが、女子には俺をー君ではなく、オイチャンと呼べと言って笑わせていた人もいた。また先甲府に重病の女の子が手術を受けるお金が足りないという新聞記事があり、先生の提案があったと思うが、皆で話し合って、その子を応援するために新聞紙などで袋を作ってお店に行ってそれを買ってもらったり、遠くの山に行って柏の葉っぱを取ってきて店に買ってもらったり、小遣いを出し合ったりしてお金を作り、甲府送ったという思い出があります。当時これはこの組にいた女子にお父さんが新聞記者をしていた人もいたためか山梨の新聞にも載り、皆で喜びあった記憶があります。それは、それは、溝口先生のお陰であるのですが、まとまりのある素晴らしいクラスでした。先生も皆様も今なお、お元気であればよいのですが。
小学校6年の時、理科の授業でモーターを作る授業があった。ブリキを固定子と回転子に切って、それぞれにコイルを巻きつけ、回転氏が回るよう組み立てた。いくつかの班に分けて競争した。他の班は大体10ボルトぐらいでしか動かなかったが、私の班は私がメインで作り、4.5ボルトで回りちょっとばかり自慢でした。でもその後は何の技術の腕前も上がらず、むなしく年取ってしまいました。 宿題忘れると教室の後ろに立たされたが、宿題やるより立たされた方が楽だなんて思い、学校から帰るとランドセル放り出し思う存分遊んだものです。それにしてもあの頃よく立たされたなー。 |
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感謝 謝罪 告白教室: | 広々としていて、良かったです。 |
教室: | 今では暖房や普通のテレビがある。 |
教室: | 学級委員長ってクラスで勉強の出来る同じ子がずっとやっていた気がする。(指定席) |
教室: | 東京タワーみたいだった |
教室: | 靴やチョーク、黒板消しを投げてきました |
教室: | 校舎 |
教室: | ああ、さっきの投稿(2020/7/30 20:17:24:名無し)私,書くところ間違えましたね |
教室: | 山崎正男先生会いたい あの頃に戻りたい |
教室: | 過去に宮寺伸子という教師に体罰を受けた事があり精神的苦痛である。それをきっかけにクラスの生徒からもバカにされて今でも立ち直れない |
教室: | 木造校舎の頃は石炭ストーブだった。石炭当番が早く登校して校舎裏からバケツ?に入った石炭持ってきてた。取り壊しの時、プレハブ校舎に入ってたのが我々の年代。 |
教室: | 1-2 で25人 |
教室: | 怖い画像でよく「ももちゃんの呪い」と仲良いこと叫んでました |
恋: | 当時彼女を辞典で引いて胸が高まる時代です。今思えばあれが恋の始まりだったかもしれませんね。 |
職員室: | 失礼しますと名前を言わないと入れなかった。失礼しましたも。 |
運動会: | 数名で中学校の運動会を見に行き、ひどく怒られた。 |
プール: | プール前のシャワーぬるかったような気がします |
教室: | 確か小学生4年生までは木造2階建ての校舎でした。5.6年になると教室が足らなくなり、校庭の一部に2階建て4クラス分の建物が出来ました。その後、さらに教室が足らなくなり、プレハブ校舎(平屋)が南棟か増築部分されましたの子どもが多かったんでしょうね。 |
図書室: | 床にある収納式のコンセントを出したりしまったりしてた。 |
職員室: | げんこつやぴしゃほほが日常でした。 |
職員室: | 5、6年の時の担任のが、理科、図工、音楽、体育が嫌いなので、その全てが、国語または社会に変更された。 理科図工音楽体育は小学生にとっては最も楽しい授業だったはずが、5教科に変えられてしまったので実に楽しくない小学校生活だった。今でもその4つの教科が受けられなかったことを残念に思う。 今の時代だとニュースになると思う。 |