都留市立谷村第一小学校 記憶の部屋
懐かしい学校の記憶を共有するページです。そこにあった物、風景、うわさ話などをぜひ教えてください。
懐かしの光景・思い出
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
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記憶の部屋
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小学校の時、図書室に入ったことがなく、どこにあったのかも思い出せない。
親に連れられて小学校の校庭に行き、クラス分けのため、名前を呼ばれたら元気な声で返事をして、列に並びなさいと言われたこと思い出す。その後担任の先生と対面し、いろいろのお話を聞いたはずなのですが、この後のことは全く覚えていない。 “蛍の光”と“仰げば尊し”を聴くと、小学校の卒業式を思い出す。中学校、高等学校でもこれらの歌を聴き、歌ったかもしれないが全くと言っていいほど思い出せない。小学校の卒業時には、初めての仲間との別れであり、それまでに仲良くなった級友、好きだったクラスの女子と別れるのが寂しく、悲しかったからなのかもしれない。 5年生の時だったと思うが、比較的体も大きかったし、力持ちだった僕はもう一人の人と桶に入ったスープを調理室から教室まで運ぶ役目をたびたび言いつかったこと思い出す。 昭和26、27年小学校3年生ごろだったと思うが、講堂の壁に、広島に落とされた原爆でひどい被害を受けた人たちや破壊しつくされ、何もなくなってしまった景色の写真を貼ってあったこと思い出す。一番ショックだったのは家の入口で黒い人影が写っていた写真だった。高熱で人が焼かれて影しか残らなかったのだという説明があった。こんな恐ろしいことふと思い出した。 ’初恋は人の心が早かれ遅かれ感ずることのできる最も美しいものである’というドイツ語の参考書に載っていた言葉がある。私は初恋の相手が誰だったか今になるとわからない。小学校入学以来大勢のかわいい女の子を好きになったから。でも小学校6年の時が一番胸がときめいたかもしれない。それが初恋だったのかもしれない。運動会の時校内を見回る役目の委員になって一緒に回った時はうれしかった。遠足や修学旅行でその子の横で写真を撮ってもらうのを楽しみにしていて、そのよう準備していたのに、直前に横から人に割り込まれ、その夢を破られたりで、ついにはそれが実現しなかったのが残念であった。
その―2
まだ結婚前の美人の女の先生が担任になった時も嬉しかった。授業中ずっと先生の顔を見ていて、どうしてそんなに先生の顔をじっと見ているのと言われ、とてもは恥かしかったことを思い出す。もしかしたらこっちの方が初恋だったのかもしれない。 小学校2年生のときかなり年配の渡辺先生という女の先生に教わった。授業に集中できずおしゃべりしていると、チョークが飛んできた。それをよけるとまたすごく怒られた。
又クラスに不良っぽい子がいて、学生服の袖に手を通さず、シャツの上から学生服をひっかけ、やくざの格好をしていたため、先生に学生服の両手を縛られ、動きが取れ無くなって泣いていたこと思い出す。今は学生服を着る子はいないからこんなことないでしょうが。
この先生授業が終わって掃除が終わり、帰る前には一人一人に国語の本の後ろにある漢字の表を出させ、それは何と読むかと指さし、すべてできた子を順に帰すということやっていた。僕はいつもやり直しをさせられ、帰りが一番遅かった。でもこのおかげで、そののち明日は早く帰ろうと思って、家で寝る前にちょっとだけ国語の本を開ける習慣になった気がする。
小学校6年の時、理科の授業でモーターを作る授業があった。ブリキを固定子と回転子に切って、それぞれにコイルを巻きつけ、回転氏が回るよう組み立てた。いくつかの班に分けて競争した。他の班は大体10ボルトぐらいでしか動かなかったが、私の班は私がメインで作り、4.5ボルトで回りちょっとばかり自慢でした。でもその後は何の技術の腕前も上がらず、むなしく年取ってしまいました。 小学校6年生の時、冬休みにはいってすぐ、僕らのクラスではクリスマス小学芸会があった。このクラスにとてもかわいい女の子がいた。この人がその時歌った’きよしこの夜’の歌声は長い間僕の心に残っていた。その後もずっと好きだったのだが、中学校に入ってからは、その人と同じクラスになることがなく、だんだん思い出すことがなくなってしまった。
最近、昔のアルバムを見て、その時のその人のことを思い出した。あの人今どうしているのだろうか。
修学旅行が東京、江の島、鎌倉だった貧しい時代のこと、旅館で食べるコメを、量は一合程度だと思うが、全員が持って行った時代があった。ほとんどがバスの移動であった。宿泊は江の島の海辺の二見旅館であった。夜は皆がうるさくなかなか寝付かれず、先生もよく様子を見に来ていた。一人が先生に向かって枕を投げ、それにつれて数人が枕を投げ合った。その後先生がほうきをもって現れ、枕をしていない生徒の顔をそれで掃いていた。それでも先生が居なくなるとまた枕を投げ合っていた。訪れた先の事はあまり覚えていないのに、こんなことを今となって思い出す。あの頃のわんぱく生徒は今どうしているのだろうか。 |