都留市立谷村第一小学校 記憶の部屋
懐かしい学校の記憶を共有するページです。そこにあった物、風景、うわさ話などをぜひ教えてください。
懐かしの光景・思い出
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室うわさ話・エピソード
あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録想いを伝える
昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白※[イイネ]ボタンを設置しました。皆さんが共有してくれた思い出に共感した方はぜひご利用ください。
記憶の部屋
思い出の光景ページへ過去に投稿された内容を表示しています。
昭和28年ごろで5年生だったと思うが、担任はお姉さんのような美しい溝口先生だった。
教室は8人程度の班に分けていた。当時教室は50人弱程度いたから6班程度があったと思う。国語の本を班ごとに読ませ、読み間違ったら次の人が読むというやり方で、各班にどのくらいの行を読むことが出来たかを競争をさせ、一番負けた班がその日の教室掃除を担当することになっていた。当時花菱アチャコや横山エンタツという喜劇スターがいてよくアジャーパーなんて言葉がはやっていた。
読み間違えるとアチャー!やアジャーパー!なんて言って他の人を笑わせたりしたものです。このころ今ではフウテンの寅さんの言葉で有名だが、女子には俺をー君ではなく、オイチャンと呼べと言って笑わせていた人もいた。また先甲府に重病の女の子が手術を受けるお金が足りないという新聞記事があり、先生の提案があったと思うが、皆で話し合って、その子を応援するために新聞紙などで袋を作ってお店に行ってそれを買ってもらったり、遠くの山に行って柏の葉っぱを取ってきて店に買ってもらったり、小遣いを出し合ったりしてお金を作り、甲府送ったという思い出があります。当時これはこの組にいた女子にお父さんが新聞記者をしていた人もいたためか山梨の新聞にも載り、皆で喜びあった記憶があります。それは、それは、溝口先生のお陰であるのですが、まとまりのある素晴らしいクラスでした。先生も皆様も今なお、お元気であればよいのですが。
小学校5年の頃だったと思うが、郡内地方に時津風部屋の大相撲の巡業があり、我、小学校にも土俵がつくられ当時横綱の鏡里や山梨出身の甲斐の山がやって来た。朝の稽古も見た。土俵上で行う稽古は幕内や十両力士であった。新人や序の口に近い力士は,当時小さな溶岩のかけらが出たり転がっている校庭で稽古していた。兄弟子に何度も何度もぶつかって転がされ続け、体に血をにじませていた。すさまじい稽古だった。見ていた女子などはかわいそうだと声を上げていた。力士はこのような厳しい稽古により涙を流しながら強くなっているのかと思った。その後校庭や砂場で相撲とるのがはやったが僕はあまり強くはなかった。あの時転がされていた力士はその後強くなったのであろうか。 昭和27年後だったか上級生になると、朝礼後、10分ぐらいだったと思うが、校庭の石(あの頃は校庭に小さい石(溶岩が多かった)がいっぱい転がっていた)を拾うのが常でした。 昭和26年、3年生の時の担任は窪山先生だった。その先生は、雪が降っても、他の組がやっていた雪合戦をやらせてもらえなかった。雪玉が顔にあたって、けがをしたことがあり危険だからということだった。その代り、授業が終わる1時間前には、机を後ろに運び、教室にチョークで土俵を描き、片足相撲をさせてくれた。これは片足を上にあげ、その足を手で持ち、残った片足と片手で相手と押し合いをして相手を土俵の外に押し出した方が勝ちという競技であった。背の小さい人から順番に出て対戦した。もちろん男女別々に行った。これで体が結構暖かくなった。その時以来、冬の寒い季節の3年生が終わるまでたびたびこの相撲をさせてくれた。こんなことを今の時代にしたら、きっと他の先生からも父兄からも授業を犠牲にしてなんだと非難されることでしょう。今思い出すと、よい先生だったし、こんなことでクラスもまとまったし、よい時代だったと思う。 小学校2年生のときかなり年配の渡辺先生という女の先生に教わった。授業に集中できずおしゃべりしていると、チョークが飛んできた。それをよけるとまたすごく怒られた。
又クラスに不良っぽい子がいて、学生服の袖に手を通さず、シャツの上から学生服をひっかけ、やくざの格好をしていたため、先生に学生服の両手を縛られ、動きが取れ無くなって泣いていたこと思い出す。今は学生服を着る子はいないからこんなことないでしょうが。
この先生授業が終わって掃除が終わり、帰る前には一人一人に国語の本の後ろにある漢字の表を出させ、それは何と読むかと指さし、すべてできた子を順に帰すということやっていた。僕はいつもやり直しをさせられ、帰りが一番遅かった。でもこのおかげで、そののち明日は早く帰ろうと思って、家で寝る前にちょっとだけ国語の本を開ける習慣になった気がする。
この小学校6年生だった昭和20年代後半のこと、男子は他の小学校とたびたびソフトボールの試合がおこなわれた。(女子はきっとドッジボールの試合があったのだろうと思うが思い出せない)。当時、谷一は守備もすごくうまい選手が多かったが、打撃ではすごい選手がいた。S君、I君である。彼らはスターだった。とんでもなく遠くにホームランを打つので、相手校の先生(監督)はすべてボール球をなげるよう指示していた。それでも彼らは踏み込んで遠くに飛ばすので、その次には、すべてゴロを投げ、フォアボールとして一塁に出していた。こんなことをしても、我々に勝てるわけないよと笑いながら、応援していた。その日の試合は、接戦ではあったが、結果的に負けてしまい、本当にがっかりし、とても悲しかった。家に帰りながら思ったことは、対等に立ち向かえない相手には、作戦というものが必要なのだということであった。谷一ホームページ見つけて、校庭について何か投稿しようと思ったとき、こんな些細な出来事を思いだした。 小学校6年の時、理科の授業でモーターを作る授業があった。ブリキを固定子と回転子に切って、それぞれにコイルを巻きつけ、回転氏が回るよう組み立てた。いくつかの班に分けて競争した。他の班は大体10ボルトぐらいでしか動かなかったが、私の班は私がメインで作り、4.5ボルトで回りちょっとばかり自慢でした。でもその後は何の技術の腕前も上がらず、むなしく年取ってしまいました。 戦後間もなくのことなのですが、給食は脱脂牛乳だった。後から分かったことはアメリカがくれたものだったとか。食物が不足していた時代だったが、お世辞にもおいしいとは言えなかった。かなり貧しい家の生徒もいたのでお腹にたまればいい程度の飲み物だったような気がする。 今では小学校でも英語を学ぶ時代になっているが、私が5年生だった頃はせいぜいローマ字を習う程度でした。なぜだかわからなかったが ローマ字は担任の先生ではなく怖い小島先生に教わった。いつも竹のムチを持ち、ローマ字の文を読めない生徒がいると、オイ兄ちゃんどうしたんだと言って机をムチでたたくのが常だった。皆が怖がり、ローマ字の文をいやおうなしに覚えさせられたこと思い出す。それだからといって中学校に入ってから、英語が出来たかというと、そうでもなかったような気がする。しかしアルファベットを早く読むのには多少役に立ったのだろうと思っている。あの頃は外人なんてほとんど周りにはいない時代だった。 修学旅行が東京、江の島、鎌倉だった貧しい時代のこと、旅館で食べるコメを、量は一合程度だと思うが、全員が持って行った時代があった。ほとんどがバスの移動であった。宿泊は江の島の海辺の二見旅館であった。夜は皆がうるさくなかなか寝付かれず、先生もよく様子を見に来ていた。一人が先生に向かって枕を投げ、それにつれて数人が枕を投げ合った。その後先生がほうきをもって現れ、枕をしていない生徒の顔をそれで掃いていた。それでも先生が居なくなるとまた枕を投げ合っていた。訪れた先の事はあまり覚えていないのに、こんなことを今となって思い出す。あの頃のわんぱく生徒は今どうしているのだろうか。 |