都留市立谷村第一小学校 記憶の部屋
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懐かしの光景・思い出
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記憶の部屋
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小学校6年生の時、冬休みにはいってすぐ、僕らのクラスではクリスマス小学芸会があった。このクラスにとてもかわいい女の子がいた。この人がその時歌った’きよしこの夜’の歌声は長い間僕の心に残っていた。その後もずっと好きだったのだが、中学校に入ってからは、その人と同じクラスになることがなく、だんだん思い出すことがなくなってしまった。
最近、昔のアルバムを見て、その時のその人のことを思い出した。あの人今どうしているのだろうか。
5年生の時だったと思うが、比較的体も大きかったし、力持ちだった僕はもう一人の人と桶に入ったスープを調理室から教室まで運ぶ役目をたびたび言いつかったこと思い出す。 親に連れられて小学校の校庭に行き、クラス分けのため、名前を呼ばれたら元気な声で返事をして、列に並びなさいと言われたこと思い出す。その後担任の先生と対面し、いろいろのお話を聞いたはずなのですが、この後のことは全く覚えていない。 昭和28年ごろで5年生だったと思うが、担任はお姉さんのような美しい溝口先生だった。
教室は8人程度の班に分けていた。当時教室は50人弱程度いたから6班程度があったと思う。国語の本を班ごとに読ませ、読み間違ったら次の人が読むというやり方で、各班にどのくらいの行を読むことが出来たかを競争をさせ、一番負けた班がその日の教室掃除を担当することになっていた。当時花菱アチャコや横山エンタツという喜劇スターがいてよくアジャーパーなんて言葉がはやっていた。
読み間違えるとアチャー!やアジャーパー!なんて言って他の人を笑わせたりしたものです。このころ今ではフウテンの寅さんの言葉で有名だが、女子には俺をー君ではなく、オイチャンと呼べと言って笑わせていた人もいた。また先甲府に重病の女の子が手術を受けるお金が足りないという新聞記事があり、先生の提案があったと思うが、皆で話し合って、その子を応援するために新聞紙などで袋を作ってお店に行ってそれを買ってもらったり、遠くの山に行って柏の葉っぱを取ってきて店に買ってもらったり、小遣いを出し合ったりしてお金を作り、甲府送ったという思い出があります。当時これはこの組にいた女子にお父さんが新聞記者をしていた人もいたためか山梨の新聞にも載り、皆で喜びあった記憶があります。それは、それは、溝口先生のお陰であるのですが、まとまりのある素晴らしいクラスでした。先生も皆様も今なお、お元気であればよいのですが。
’初恋は人の心が早かれ遅かれ感ずることのできる最も美しいものである’というドイツ語の参考書に載っていた言葉がある。私は初恋の相手が誰だったか今になるとわからない。小学校入学以来大勢のかわいい女の子を好きになったから。でも小学校6年の時が一番胸がときめいたかもしれない。それが初恋だったのかもしれない。運動会の時校内を見回る役目の委員になって一緒に回った時はうれしかった。遠足や修学旅行でその子の横で写真を撮ってもらうのを楽しみにしていて、そのよう準備していたのに、直前に横から人に割り込まれ、その夢を破られたりで、ついにはそれが実現しなかったのが残念であった。
その―2
まだ結婚前の美人の女の先生が担任になった時も嬉しかった。授業中ずっと先生の顔を見ていて、どうしてそんなに先生の顔をじっと見ているのと言われ、とてもは恥かしかったことを思い出す。もしかしたらこっちの方が初恋だったのかもしれない。 小学校2年生のときかなり年配の渡辺先生という女の先生に教わった。授業に集中できずおしゃべりしていると、チョークが飛んできた。それをよけるとまたすごく怒られた。
又クラスに不良っぽい子がいて、学生服の袖に手を通さず、シャツの上から学生服をひっかけ、やくざの格好をしていたため、先生に学生服の両手を縛られ、動きが取れ無くなって泣いていたこと思い出す。今は学生服を着る子はいないからこんなことないでしょうが。
この先生授業が終わって掃除が終わり、帰る前には一人一人に国語の本の後ろにある漢字の表を出させ、それは何と読むかと指さし、すべてできた子を順に帰すということやっていた。僕はいつもやり直しをさせられ、帰りが一番遅かった。でもこのおかげで、そののち明日は早く帰ろうと思って、家で寝る前にちょっとだけ国語の本を開ける習慣になった気がする。
宿題忘れると教室の後ろに立たされたが、宿題やるより立たされた方が楽だなんて思い、学校から帰るとランドセル放り出し思う存分遊んだものです。それにしてもあの頃よく立たされたなー。 校庭には時々平均台が置かれていた。ただし、その上で演技している生徒は見たことがなかった。僕らは手だけを使ってお互いを落とすゲームを楽しんだものであった。あの平均台はいつ使ったのだろうか。このゲームのお陰で平衡感覚が身に着いたような気がする。 昭和26、27年小学校3年生ごろだったと思うが、講堂の壁に、広島に落とされた原爆でひどい被害を受けた人たちや破壊しつくされ、何もなくなってしまった景色の写真を貼ってあったこと思い出す。一番ショックだったのは家の入口で黒い人影が写っていた写真だった。高熱で人が焼かれて影しか残らなかったのだという説明があった。こんな恐ろしいことふと思い出した。 戦後間もなくのことなのですが、給食は脱脂牛乳だった。後から分かったことはアメリカがくれたものだったとか。食物が不足していた時代だったが、お世辞にもおいしいとは言えなかった。かなり貧しい家の生徒もいたのでお腹にたまればいい程度の飲み物だったような気がする。 |