例)夜になるとトイレにお化けが出るといううわさがありました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白トイレ: | その当時、お化けが出る話で盛り上がったのを今でも思い出します。しかもドッポントイレで臭く、いいイメージはありませんでした。しかし、昭和のイメージを代表するようなところであったと今思います。 |
トイレ: | 学校中にトイレは一か所。下駄箱のすぐ近くにだ。各学年一クラスの小さな学校だったからだろう。昭和30年代の話。男子は個々に小便器があるのではなくコンクリートの壁に向かい用を済ませた。職員用のトイレがあったかどうかは記憶にない。 |
トイレ: | トイレペーパーがなかった記録があります。 |
トイレ: | 友達と、窓を開けて外掃除の人を驚かしていた。その時は、草生えたww |
トイレ: | 講堂のうらのトイレは幽霊が出ると言われていた |
トイレ: | 今から二年前に北校舎のトイレが綺麗になって、洋式のトイレになりました~♪ 南校舎は変わらずですけど… |
トイレ: | 教頭(岩澤)が、三階中央 女子トイレに隠しカメラを設置した。そして、捕まった |
トイレ: | トイレの花子と太郎の噂はあったね!ただそれすらほんとなのか甚だ疑問だ! |
トイレ: | 2階の女子トイレの奥から3番目に、0:00分、花子さんが… |
トイレ: | 6年のトイレが臭すぎて、階段のところまで臭いがきてたw |
屋上: | 先生が蹴ったボールが屋上に上がってしまったことがありました(笑) |
告白: | 中学生になってはじめてそうすけに告白しました。ネット上に書き込む勇気もいるけど、もし、そうすけがこのサイトを見ていたら告白の返事、教えてね |
プール: | 使ってない時汚い |
校庭: | ・たまに、学年を交えて遊ぶ時間がありました。 ・毎週水曜日はロング昼休み。 ・的の壁の裏は遊びの時に隠れるのにちょうどよかった思い出があります。 |
感謝: | 北部小学校で仲良くしてくれた、友達みんなありがとうございました。みんなにもう一度会いたいな(^ ^) |
体育館: | 開校100周年イベントがありました。その時かけ声みたいな事を全校生徒でやったんだけど「マツイトメさんが寄付してできた月寒小」ってのがあったんです。マツイフクさんだったかな?とにかく女の方が寄付してできたの?って子供ながらに驚いた記憶があって。だけどWikipediaにはその方の記載はない。あの私の記憶は何だったのかと疑問に思ってます。 |
音楽室: | 江藤先生お世話になりました。 男性ティックで迫力がありました。 |
図書室: | 思い出の場所と言うかそれ以上の場所思い出とかそういう言葉では表現しきれない。それくらい特別な場所そこで初めて手に取った本は確か「かいけつゾロリ」小2だったかな最後に読んだのはハリー・ポッターシリーズ2周するくらいどハマリしてた |
感謝: | うざかった。がちでなんで生徒と先生が毎日のように授業中に喧嘩してんの?関係ない人まで関わってさぁ。しかも一人不登校のやつこいつもまた変なやつで先生がみんな生徒一人一人校長室で話したよな。親まで迷惑かけやがって、ガチでうぜーんだよ。思い出なんてつくれるか馬鹿野郎 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |