賢明学院高等学校の下駄箱

懐かしい賢明学院高等学校の記憶を共有するページです。

賢明学院高等学校の下駄箱

賢明学院高等学校の下駄箱での今でも忘れられない思い出を書き残してみませんか。あの頃の懐かしい思い出をぜび皆さんと共有してください。
例)下駄箱にはどんなものがありましたか?
  下駄箱の上に何か飾ってありましたか?
  下駄箱でラブレターもらいました?
  例えば下駄箱にあった不思議なものや風景、噂になっていた怖い話など教えてください。
  

賢明学院高等学校
下駄箱の思い出

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例)下駄箱にラブレターこっそり入れました。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

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うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

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他の高校の下駄箱での記憶

下駄箱での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 下駄箱での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
下駄箱すげーボロで必ず個人で鍵つけないとならないルールがあって、頭悪い高校だったからか上靴盗む犯罪者も潜んでた
下駄箱上から、体育館シューズ、スリッパ、グラウンドシューズ
下駄箱下駄箱っていうか、朝、校舎に入る時に並ばされて上靴底を見せて少しでも汚れがあったら、雑巾で拭いて綺麗にするまで校舎には入れなかった。雨の時には傘の水滴を雑巾で拭いて見てもらって合格もらわないと校舎入れなかった
下駄箱丹尾真斗という架空の生徒が出るといううわさがありました。
下駄箱靴を履き替えるときは、画ビョウないか確認してたぜ
下駄箱スリッパや革靴に履き替えたりととにかく、下駄箱の前にはたくさんの人がいました。
下駄箱無かった
下駄箱当時は入学した年ごとにスリッパの色が、エンジ?、グリーン?、ブラウン?に別れていて、スリッパの色でこの人何年生かが分かった
下駄箱下駄箱はもちろん学年によって場所が違う。1年生のとき(1998年・平成10年)は改装工事があったので、1学期までは場所が違ったが、2学期になり改装工事が終わると場所が移動し中庭(テニスコート)ができ、横に自転車置き場もできたため増築し下駄箱も中(なか)ほどに移動した。2年生のころ(1999年・平成11年)は生徒入口正面真ん中の辺りで、3年生のころ(2000年・平成12年)になると3年生の下駄箱は生徒入口正面手前に移動した。ちなみに、教職員専用の下駄箱は別の階段を登ってドアを開けるとすぐある。階段を登ってすぐドアを開けるとある。
下駄箱新校舎になってからは下駄箱なんて無かった。ローファーで出入り可能です。旧校舎は不明。

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
プールプール何て無いよ。
校庭定時制生徒も同じ教室を使うので、私ではないけれど、ラブレターが机に入っていたことがあったね。純情なる小川高校生**
屋上丹尾真斗という架空の生徒が出るといううわさがありました。
感謝同窓生や3年3組のみなさんに感謝します。長い人生の短い期間でしたが、一緒に過ごした時をわすれません。みなさんにおかれては色々な色のある人生を送られていることでしょう。卒業以来、疎遠にしています。この年になると無性に会いたい。会って空白の期間を埋めるような話がしたいです。今は一緒に過ごした時に感謝しかありません。
伝説葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね!
プールプール無かったよな
謝罪ずっと好きだったのに。本当にごめん。ちゃんと謝りたかったので
体育館冬はなわとびだけで、スキーも行ったな。夏はマラソンだけでした。
プールプールという名の環境設備科の実験場でした
音楽室1人に1台電子ピアノが用意してあり、バイエルを練習した。 とても懐かしい思い出です。


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