北塩原村立檜原小学校の伝説

懐かしい北塩原村立檜原小学校の記憶を共有するページです。

北塩原村立檜原小学校の伝説

北塩原村立檜原小学校学校に伝わる伝説的な逸話、例えば物凄い特技を持った生徒がいた、すごいことを成し遂げた/やらかした人がいた、超絶人気のある先生がいた、有名人が来た、テレビ撮影があった、ドラマに使われた、宇宙人が来た、学校の地下には秘密基地がある。。。などなど。ちょっと嘘っぽい話でも、あなたが知っている学校に伝わる伝説を教えてください。

北塩原村立檜原小学校
伝説の思い出

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例)学校に伝わる伝説・逸話










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の伝説での記憶

伝説での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 伝説での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
伝説コンピューター室の窓ガラス割ったやつおる
伝説クラスも2クラスしかなくて、私の担任の先生は吉岡先生、あの当時50歳くらいだったかな?厳しい先生でした
伝説目合わしたらほっぺた触ってくる子がおってびっくりした笑笑
伝説6年のクラス替え
伝説伝説とは少しずれますが、裏に神社がありました。
伝説私が一年生のときに、当時5、6年生の女子生徒が、部活の朝練に来たときに、車が何かとぶつかってしまい、その子は清水台小学校の正門の前で車から投げ出されちゃって、正門の前で亡くなった。
伝説午前の長い休み時間の終わりはエーデルワイス
伝説S.N って人、ほんと天才だったなぁ。無口な人だったけど、すごい優しかったし。また会えるといいなぁ(ちなみにSが下の名前、Nが苗字)
伝説先生を論破してるやつがいた
伝説その当時は木造でなんて古い学校なんだろう

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
トイレ和式トイレ 下をのぜきこむとお地蔵さんがいた
プール地盤沈下でプールのスタートが深かった。
告白当時幼かった私はあなたの気を惹こうとして、たくさん傷つけてしまったかもしれません。ごめんなさい、でも本当はずっと大好きでした。お互い全く違う人生を歩んでいるのにもう何十年も昔の事なのに未だに夢に出てくるのはなぜでしょうか...今夜はぐっすり眠れますように。おやすみなさい。
図書室私が4年生で図書委員をしていた時、卒業生で成功した、札幌のカナリヤと言う洋品店から、茶色で分厚い遮光カーテンが送られてきた。
プール更衣室の前の廊下がめちゃくちゃ臭くて、トイレと通気口が繋がってて、アンモニア臭がするし、床が茶色い液体で濡れてる。
図書室掃除機
校庭子供会のバーべキュー。
プールビート板に歯形がついていた。
保健室保健室に遊びに行っていろいろなことを教わりました。いまも役にたっています。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。


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