例)入学式に遅刻してしまい大変でした。 |
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学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白入学式: | 初めて学校へ行く日、お母さんが学校まで来てくれました。そして明日からは一人で行くんだよと言われました。 |
入学式: | 楽しかった |
入学式: | 昭和46年入学 平田まり級 懐かしい |
入学式: | 入学式からわずか1週間で転居してしまい、思い出が薄れてきてしまった。73年の入学式。まだ周りには何も無かった。 |
入学式: | 入学式にベルトが取れてズボンが脱げそうで大変でした |
入学式: | 2013 |
入学式: | あ、もちろん、試験結果が出てからクジ引きがありました。ひとりずつ講堂の壇上に上がり箱の中から色付きのボールを取り出します。すごく嬉しかったのを覚えています。 |
入学式: | デブでした |
入学式: | 多くは話しませんでしたが、ピンクに黒が似合っていました。高校は別々でした。 |
入学式: | 私は入学後 間もなく親の転勤で 転校してしまいました。そのため、思い出と言えるものはありません。でも当時の担任が アルバムを作って持たせてくれました。アルバムには 入学式の写真と先生からのメッセージ。嬉しかったなぁ。加美山先生お元気でいらっしゃいますか。 |
教室: | リフォーム前は石油ストーブの排気管を抜いた跡があり、クラックも多い古い感じでした。 落書きも多いし汚いがリフォームで綺麗になりました。 |
職員室: | 夏はクーラーがきいてて羨ましいしかない。 |
告白: | 放課後、誰もいない教室で黒板に落書きしたのは俺 |
プール: | 女の先生が教えてくれてたから授業中股がムズムズしてた |
校庭: | ドッジボールをするところと走る等、他の競技をするところの2ヶ所がありました。冬でも、雪が積もっていても、ほとんどの男子は半袖に短パン、女子は半袖にブルマーで体育を行っていました。ただし、雪合戦のときだけ、女子がスカートやズボンだけ脱ぎ、下だけブルマーで挑んでいたのが不思議です。雪で濡れたら困るからなのでしょうか? |
音楽室: | せんせー、ごめんなさい!うるさいです |
飼育小屋: | 私が通っていた時に、うさぎと孔雀が居たんですがまだ生きてますか? |
体育館: | いつまでも舞台裏に置かれてある謎の出し物がある |
体育館: | 体育館なんて洒落た呼び方ではなく「講堂」だった。当時、多動で落ち着きがなく所謂「発達障害児」であった自分は担任の中年女性教師から当然の如く嫌われ、田舎特有のキツいいじめの渦中にあっても完全にスルーされていた。そんな中、初めての「学芸会」。クラスの出し物は「花さかじじい」のお芝居だったが、私は裏方すらやらせてもらえず、練習時も校庭に追い出されていた。発表当日、おそらく保護者なども観に来て賑やかな声を聴きつつ、講堂の裏手の百日紅の木にもたれてひたすら時間を潰した。母には学芸会の話はしなかったので、来る事は無かった。こっそりくすねた小道具の、金の折り紙の貼られた紙の小判をためすすがめつ眺めたりして、ただひたすら長い長い暇を潰した。もたれた埃っぽい壁の背中越しに、大勢の拍手と笑い声が響いていた。風が吹くと頭上からひらひらといくらでも舞い散ちて来る細かなフリルの小さな小さな桃色の花弁を、今も鮮明に覚えている。穏やかな日差しの、良く晴れた日だった。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |