徳島市立八万小学校南分校の卒業式

懐かしい徳島市立八万小学校南分校の記憶を共有するページです。

徳島市立八万小学校南分校の卒業式

徳島市立八万小学校南分校楽しかった学校の最後の日皆さんはどんな時間w過ごしたのでしょうか。親友との別れやライバルとの未来の約束、お世話になった恩師への感謝の気持ちを伝えたり、淡い想いを伝えられずに遠くで見守った片思いの人との思い出。あたは失敗した話や卒業式あるあるなどをなんでもいいので皆さんで卒業式の楽しい思い出を共有しましょう。

徳島市立八万小学校南分校
卒業式の思い出

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例)卒業式に親友たちと別れるのが名残惜しかったです。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の卒業式での記憶

卒業式での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 卒業式での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
卒業式担任してくださった先生や親友と離れてしまうのが悲しくて、涙が止まりませんでした。
卒業式すだちの歌を歌った
卒業式みんなで写真を撮ったり泣きあったりして最後の日を過ごしたことして
卒業式告白したかった
卒業式2019年の卒業生徒に初恋の人がいるけど今はもう繋がりがない
卒業式4年生、5年生、6年生の時の担任教師に酷いいじめを受けました。梶塚と増田という教師です。この学校は最悪すぎて。
卒業式卒業式は次の中学の制服で、という独特の文化みたいなのがあったけど、未だにそうなのかな
卒業式好きだった子がちがう学校に行ったこと
卒業式コロナウイルスで、通常のが出来なかったけど最後にみんなで卒業を祝うことが出来て良かったです!今もみんなと過ごした時間は良いものです!ありがとう!!
卒業式僕は、この学校の卒業生ですが 本当に くそ母校です。4年生の頃から、卒業したいと思いました。

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
体育館つっぱり学校でした
プールどろがたまってた
トイレ男子トイレに落書き見つかって先生激怒
音楽室卒アルに大口開けて歌っている姿が残ってます(^-^;
好きなに人に会いたいね。
転校生
トイレトイレットペーパーなどという物はなく、新聞紙を切って置いてありました。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。
給食全て給食室で作っており、当時の栄養士さんがメニューをとても工夫してくれていて、残飯がとても少なく、表彰されたり、頻繁に他府県から見学に来ていたりした。とても美味しかったです。
下駄箱下駄箱ねぇ


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