例)卒業式に親友たちと別れるのが名残惜しかったです。 |
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学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
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感謝 謝罪 告白卒業式: | 修学旅行とか遠足のてーまが有れば良いけど無いのでここに修学旅行の時の話を。クラスにT君という知的障がいの子がいて、あまり会話は出来なかったけれど、それなりにクラスになじんでいた。特に音楽に乗りやすく、指揮者のようにタクトを振るしぐさをよくしていた。修学旅行の時は母親なのか、もしかして祖母なのかしれないけどおばさんが付き添いで同行していた。旅館で余興タイムになり何人かが出し物をし、間が開いたころ、誰かが次はAちゃん(T君の名前で、通常みんなからそう呼ばれていた)の番や、という声がかかった。するとみんながそれに同調し、担任の先生も同じことを言いだした。するといきなりおばさんが出てきて代わりにマジックをしますといい、箸袋の両端を先生と生徒に持たせ、それを箸で切ると言い何度か切る真似をしたのち、「これは切れません。切っても切れない師弟の間柄」という説明をしました。小学生とはいえ高学年だから当然意味は分かるけど、それほど面白い話でもない。また誰かが、今度はAちゃんと言うと、担任はたまらずもういいからと止め、おばさんにお詫びを言っていました。クラスではよくある光景だったけど保護者から見れば居たたまれないことだったんですね。何十年か経ってT君の家だった小学校すぐ近くのお店はなくなり、当時でも珍しかった畑も消えていました。 |
卒業式: | 6年生のお別れ会?では毎年 たんぽぽという歌を在校生が歌ってた記憶があります |
卒業式: | 卒業式の歌で『ゴールめざして』が最高に泣けた |
卒業式: | 私は昭和45年度の卒業生です。担任の先生のお名前は薬師寺先生でした。なぜかふと思いだし、投稿させて頂きました。あれから約50年弱過ぎましたが、懐かしい思い出です。もう私も61才になり、死ぬ前に(笑)もう一度三勲小学校を訪れてみたいと思っております。 |
卒業式: | 卒業式で別れたのはあのドラえもんだけだったなー。いつもどうりのおバカ君と、○っ○ーと僕の四人でよく小五のときライフで遊んだのを覚えています。とても良い思い出です。でも、卒業してからまだ会っていませんね。タイムカプセルの時にお会いできると良いですね。(2019年卒業) |
卒業式: | 在校生がいなくて悲しい卒業式でした‼ |
卒業式: | ♪うららかに春の光がふってくる〜から始まる歌の卒業式。先生、4、5年生、卒業生、それぞれ送る言葉を歌いあう、素敵な卒業式でした。 |
卒業式: | 卒業生は学ラン、セーラー服でした。男の子は坊主にしている子もいましたね~ |
卒業式: | 最後の言葉と、歌で、泣いた。 |
卒業式: | 家に帰る途中で卒業証書を無くした |
教室: | 秋津東小学校と秋津小学校の青葉学級がまだまだなかった時 |
体育館: | 体育館の下の用具置き場は、秘密基地のようで、ふざけて、皆で遊んでいた。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
給食: | きな粉揚げパンがおいしかった |
卒業式: | 写真 |
教室: | 4階から上は、特別な教室だった。 |
音楽室: | 音楽委員会で演奏してました。アコーディオンは覚えてないけど、木琴は自分のパートも友達のパートも今でもできるくらい、いい校歌いい歌詞いい曲でした。 |
感謝: | うざかった。がちでなんで生徒と先生が毎日のように授業中に喧嘩してんの?関係ない人まで関わってさぁ。しかも一人不登校のやつこいつもまた変なやつで先生がみんな生徒一人一人校長室で話したよな。親まで迷惑かけやがって、ガチでうぜーんだよ。思い出なんてつくれるか馬鹿野郎 |
恋: | 自分の引越しで県外に行きました。最後だけでもいいから 皆に会いたいなぁ… |
教室: | うんどうかい |