例)本当は大好きでした! |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白告白: | 愛してる |
告白: | 私は5年生のとき、いじめられていました。その理由が他の子がいじめられていることを先生に言ったからです。内容は暴力的な物ではなく、陰口、無視、悪口というものでした。なので気づかれにく、とても辛かったです。 |
告白: | 好きです♥ |
告白: | 昔はよく一緒に遊んでたね |
告白: | 今から、買い物に行く。 |
告白: | 修学旅行のとき、風呂場から女子のパンティー1枚姿が見えてしまい、その女の子をそれ以来好きになってしまいました。胸やブルマーの中を見たり触れたりするのは罪、お願いするのは変態なので、ずっと我慢していて結局告白(というよりかは白状)できませんでした。 |
告白: | 小1~6年まで好きやった。家が近所でたまに一緒に学校行ったり帰ったりしとった。当時はめっちゃ緊張してほとんど話せんかった。6年の最後隣の席になった時はめっちゃ嬉しかった。クラブとかも一緒やったなぁ~数年前にmixiで再会してやり取り出来たのも嬉しかった。また何処かで会えたらいいな |
告白: | 思い出断捨離 |
告白: | 俺は、〇〇のことが好きでした‼️ |
告白: | 森田幸加さんと山本知州花さんどちらも初恋でした。二又とか正直感じていませんでした。 |
卒業式: | 今までな思い出が全部よみがえったが全部よみがえった |
卒業式: | 教室の外庭に数人の友達で寄せ書きなどを入れた非公式のタイムカプセル。10年後に掘ろうと話していたが、翌年に誰かが掘り出したという話を聞いた。その後どうなったのか今となっては詳しい埋め場所もわからないが。 |
トイレ: | 校舎の裏に使われていないトイレがあって入れないようにしてあったが昼間でも不気味で、お化けがでそうな感じだったのを思い出す。 |
保健室: | 楽しかった(ToT)さびしい |
飼育小屋: | 地震前はニワトリやら亀やらうさぎやらが飼育されていたけど、地震後からはただの箱に変わり果てました。 |
告白: | 修学旅行時、花火を見ながらK君がT君に告白していた。まぁ振られてたけど(笑) |
感謝: | 和田先生に毎日のようになぐられたのが懐かしいです(笑) |
教室: | どこかの教室にパンチ佐藤キック佐藤って書いてあった気がする |
給食: | めっちゃ美味しかったです |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |