例)夜になると図工室にお化けが出るといううわさがありました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白図工室: | 他の学校行っちゃった図工の先生今元気かな? |
図工室: | 机が少し古かったから、存分に汚せた!(笑) |
図工室: | (いい)先生。その自己紹介がすごく記憶に残ってます。 |
図工室: | 秋山先生は、所謂芸術家タイプで優しい先生でした。 |
図工室: | プールの前、1階が図工室でした。覚えている工作は、アルミ版を釘とハンマーで叩き出して立体を作るというもの。 |
図工室: | 図工室は、一番西側一階にあった。 |
図工室: | 図工室ではありませんでしたが私はここの学校卒業の今年58歳です。 昨今、教育者などの暴力など。。今はTVである住職の暴力などが問題視されています。しかし。。私の小学生の時はこの学校にいた、算数の先生冬〇先生と言う男性教師は算数が出来ないと生徒全員の前で蹴とばしたり殴ったりスゴイけんまくで暴力団みたいでした。今も教育者の暴力やセッカンなどの報道が出るたびにその先生の顔をはっきり思い出します。他の先生の名まえはあんまりはっきり出てきませんがこの先生だけはトラウマみたいに今でもしっかり目の大きさ口のかんじ色白で毛深く口のまわりが剃った髭後で青くなっていたとか今でもアリアリと思い出します。来ていてスーツまでも。。。あの先生は今はどうしているのでしょうか?あの時の暴力を悔いての生活をなされていたのでしょうか?心に深く傷を負った小学生時代でした。 |
図工室: | テーブルにかなり年季が入っており表面がぼこぼこでした |
図工室: | (笑) |
図工室: | 8ryhih4n2ihirg |
体育館: | 体育館は学校内の真ん中に有りました。雨が降ると雨漏りして床もビョビョ… どしゃ降りの時は体育館が使えなくて体育は休みでした。 |
恋: | 担任の荒川先生に憧れてました!元気にしてるかなー、! |
保健室: | 六年間保健室行ったことないです |
教室: | 石廊下が懐かしいです |
トイレ: | 職員男子トイレで床を全部張り替えて、匂いに対する効果があったら全部買えるそう。 |
校庭: | 放課後、毎日キックベースボールをやってた。校庭が狭いからホームランがよく出たなぁ。片腕の用務員のオッチャン元気かなぁ? |
教室: | マジで北側教室は寒すぎ冬地獄「今年の卒業生」 |
飼育小屋: | うさぎを二羽(ミルキー、ボンガッカ)飼っていました!! 飼育委員は、途中から環境委員になっていた気が...。 |
飼育小屋: | アヒルにかまれると痛かったナア |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |