例)夜になると屋上にお化けが出るといううわさがありました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白屋上: | プールがあった |
屋上: | 卒業の時行ったことあります |
屋上: | 屋上?当時、二階建ての木造校舎❗ 屋上は無かったヨ❗ 瓦屋根の上に登りたかったナ(爆笑) |
屋上: | 理科の温度計を使うときにつかってました! |
屋上: | 屋上からみんなで写真を撮りました。 |
屋上: | 屋上でクラブやってた。でもそのクラブ1年でなくなったw |
屋上: | 校庭が狭いこともあり、屋上で馬飛やドッジボールよくやりました。遠くに富士山を望み、近くには東京タワーが建設途中でだんだん高くなっていく様をワクワクしながら眺めていました。 |
屋上: | 1回か2回くらい昼ごはんを食べにいった |
屋上: | 確か、屋上は立ち入り禁止だったような…入れたら、いいのに。 |
屋上: | 私は1958年に入学しました。小学校6年になるとき、父親の転勤で東京・世田谷区に転出し、区立松ヶ丘小学校に転校しました。95年の震災の時、神戸東灘区で微力ながら復興のお手伝いをさせていただきました。1日休みをもらい上ヶ原小学校近辺と、当時の社宅に行きました。懐かしかった半面、母校の校庭には仮設住宅が建ち、住んでいた社宅は倒壊していました。しかし、今でも私の心のふるさとは西宮市仁川百合野町です。ところで、私が上ヶ原小学校で強烈に覚えていることは、イギリスから上ヶ原小学校に視察団が来られて、イギリスから帰国したチャーミングな順子さんという同学年の女生徒が通訳をやったことでした。今どうしていますかね? |
体育館: | 前、朝の会で体育館にスズメが入ってきたww |
音楽室: | アコーディオンがありました |
体育館: | 明治時代を彷彿とさせる講堂の柱や照明器具がお洒落で大好きでした。その空間に立つだけで厳かな気持ちになりました。 |
保健室: | 私は1年程、保健室登校と別室登校をしていましたが、保健の先生はいつも仕事の合間に勉強を手伝ってくれました。優しかったし、面白い先生でした。 |
下駄箱: | 一年生の頃犬が大嫌いで帰り道で遭遇するて怖いので姉を待っていましたが、3つ上の姉が出てくるのはかなり先でした。 先生が来ると下駄箱の陰に隠れるのですが…何故か見つかってしまい「早く帰りなさい!」と怒られました… 今となっては笑える思い出です。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
プール: | 当時はプールは南側にあって長さが12.5mしかない短いものでした。夏が待ちどうしかったなあ。プール |
恋: | 幼馴染の水泳競技会の練習の時に僕はバレー少年団に所属していたのですが学校が終わってからそのまま体育館に向かいバレーをする。そんな毎日でした。小学6年の頃教室に筆箱を忘れ取りに戻りました。筆箱を取り体育館に戻ろうとしたら隣の教室のドアが開いていました。隣の教室は基本なにも使わないので不審に思いつつもドアを閉めようとした時にバックが2つ置かれていることに気づきました。僕は好奇心旺盛だったのでそのバックがなんなのか気になり近くに寄りました。そのバックはちょうど水泳記録会の練習をしていた幼馴染と幼馴染の友達のものでした。窓の外からプールの風景が見えまだ練習していることを確認し思春期の私はあろうことか幼馴染のバックからパンツを取り出しあそこが当たる部分の匂いを嗅いだり、舐めたりしました。とてもいい匂いだったのを覚えています。それから水泳記録会の練習があるときは必ず教室に上がりいろんなことをしました。 |
謝罪: | ミキ、ごめんなさいm(_ _)m |
恋: | 小幼稚園から学生2年まで一緒だったあかりちゃん |