例)今でも初恋の人が忘れられません。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白恋: | 5.6年生のときにリコーダーとバスケが上手かった子、中学受験で同じ中学校じゃなかったけど長瀬駅でばったり会ってすごい好きになったの覚えてる |
恋: | 片思いだったけど、実らずに日本に帰ってきてしまった。でも、塾でアドレスを交換できたからいい |
恋: | 好きな人と別れて学校で泣きました。青春でした |
恋: | 不登校だった私が恋をして、その人に会いたくて学校に行くようになった。卒業間近に転校した。ずっと好きだった子に引越し間際、好きな人誰クイズみたいなのをしていて、紐解いていくと自分だった。恥ずかしくて驚くことしかできなかったけど、幸せでした。冗談ぽく言ってたから本当かどうかわからなかったけど、最後にいい思い出をくれた。今でも忘れられないくらい淡い思い出です。大好きだったよ。 |
恋: | クラスの面白い男子が好きでした。今はもう違いますが、彼が私の初恋だと思います。 |
恋: | 大人になった今でも翔太くんの夢を見ます。からかわれたりふざけたりする時間が楽しかった。何か伝えたい訳でもしたい訳でもないけれど、ただ遠くから一目会ってみたいです。 |
恋: | 3〜5年まで、3年間好きだった人と両想いだったってことを中1になって知った |
恋: | ガチ分かる みんなリア充とかにならずに今の時代楽しもうぜ |
恋: | T.Sさんが好きでした! |
恋: | 3年間一緒の同級生のことが大好き |
運動会: | 騎馬戦 |
給食: | 食パンが苦手でした。給食当番の時給食室まで随分と長い道のりをたくさんの渡り廊下を渡って運んだのを覚えています。 |
体育館: | 運動会で使ったしっぺい太郎の巨大絵 体育館にも飾ってあったなぁ |
プール: | プールでの水泳の授業中、悪天候に見舞われ落雷に合いプールサイドの地面のブロックが割れた |
理科室: | 授業参観、理科室でもありました |
記録: | 2023の体育デーで女子800で一位をとった人がいます |
恋: | 女子とキスをたくさんされた。 |
屋上: | 屋上はプールだったな~。 水はめっちゃ冷たかったぁ 天気がいい日は夏休みのプールいったわ~笑 寒い日はすっぽかしたけど。 |
教室: | スケッチ大会、運動会の部落対抗リレー、遠足、釘抜き地蔵、古墳。楽しい思い出ばかり、懐かしい。僕は炭住の部落から通っていたけれど、通信簿は体育以外はほとんど3だった 。中学校は福岡市内に移ったのだけれど、平凡だった成績が軒並みワンランク以上あがって中学の先生方には県立進学校を進められた、特に勉強したわけでもなかったのに。要するに、小学校のときは田舎ゆえに長閑だったのだろうし、成績なんて先生の情緒だったわけですね。中学を出て高専に進み就職して海外勤務もしましたが |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |