例)大人になった今、あの時先生が叱ってくれた意味がわかりました。 ありがとうございます! |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白感謝: | お久しぶりです。 |
感謝: | 小学生の頃はあまりいい思い出がないが3、4年の時の担任は良かったのは覚えてる |
感謝: | 松尾先生、いつもありがとうございました。2030年、3月23日に会いましょう!中学の入学式が終わったら行きますから!校庭にいてね!絶対だよ! |
感謝: | かあちゃん仲良くしてくれて有り難う 連絡待っています |
感謝: | 修学旅行で乗った観光バスの東急鯱バスさんに感謝します。その時以来今でも鯱バスさんとお付き合いしており、吉本新喜劇との共演をもらったり毎年鯱バス様の忘年会に歌のゲストで呼んでもらったりで。一部は伊丹市バスのクラスや学年もあったというが。名古屋、豊田自動車工場、犬山城に行って「喜月」という旅館に泊まった。現在は「八勝閣みずのを」という名前に変わったが。そこで部屋での寝る場所を各自で勝手に決めないように、食事時に鯱バスさんが主催の抽選会をして景品と寝る場所も同じ番号の所にするとなった。私が希望してた一番奥端の窓側である犬山城と木曽川の前に行きたかった。でも、抽選で当った所になる。窓側端は景色の眺めが良いから特等席になる。抽選は東急賞、犬山賞、名古屋賞、豊田賞、ハズレだった。1等は東急賞で景品にはメロン狩りツアーもあったと思う。(東急賞でも何番ってあったから)寝る場所は床の間横の端で景色が見える所。2等は犬山賞だった。これが自分が望んでいた所。一番奥端の窓側。景品は木曽川鵜飼の乗船券もあった。3等は名古屋賞で出入りやトイレに便利な一番入口側の端。景品は金鯱グッズ。4等は豊田賞で自動車グッズが景品。寝場所は2人だけが並んでいる所。ハズレは真ん中の寝る場所。4人1列が多かったから真ん中2人がハズレ。残念賞はありだった。でも、真ん中は両方と話せるから絶対に真ん中がいい!端ばかり入賞にするのはおかしいという申し立てもあった。しかし、これから大人になっていく子供達には社会では座席の順があって、入口から最も遠い所や端が「上座」になることを学んでもらうことだった。子供の世界だから「特等席」と言ったが大人の社会では「上座」と呼ぶこと。先生からは修学旅行は学問を修めると書くからそういうことになったとの回答だった。辻は今だから言えることだが、実は抽選会で鯱バスにゴマすって、一番窓側端の犬山城の前に当たるようにして下さい!って抽選を取ってもらってて「インチキ」してた。 |
感謝: | 自分は49年生まれですが、清水先生とか、佐渡ヶ島出身の川上先生とか、ふぐみたいな佐藤先生とか、今思うといい先生ばかりでした。 |
感謝: | 2年のときに高橋先生に担当していただきました。いじめにあいましたが、高橋先生に優しくしてもらい、どうにか学校にまた行けるようになりました。ありがとうございました。 |
感謝: | 友達になってくれてありがとうございました。 |
感謝: | 社会人になって、小学校時代が土台になってると思います。先生方、同級生の友達の皆さん、ありがとうございます! |
感謝: | 卒業して30年以上が経ちます。当時の英雄(友達) の何人かは、すでに旅立ったようです…いつか、当時の伝説を肴に一杯やりたかったんですが…あの時の物語は宝箱にしまっておきますね。 |
図書室: | 弟が世界の歴史漫画を借りたまま返してません。 |
校庭: | 校舎の入口に池があった!塀があって登り池に落ちた事がある |
職員室: | 六年B組 |
給食: | 神郷小学校 |
下駄箱: | 下駄箱はなかった。 |
給食: | 黒コッペパンが好きでした。普通のコッペパンと違い、薄っすら味もついてた記憶あります。学級閉鎖とかでいきなり途中から休みになった時は、休んだ人たちの牛乳をじゃんけんしてもらってました。牛乳も好きだったな。 |
体育館: | いつも体育館を走り回っていました。学芸会、卒業式思い出します〰️ |
プール: | プールが完成したのは小学五年生の時でした。当時生徒が多く体育の時間に水泳ができたのは数少なかったように思う。夏休みはプールを解放してくれていたがこれも生徒数が多い関係と時間が短いので楽しめなかった。 |
教室: | 池から流れる水の音や,体育の掛け声が響いていた。 |
感謝: | 昭和25年に入学、そして27年7月に小樽色内小学校へ転校しました。北海道では京都弁が通じないため、寂しい時がありました。転校して2学期の中頃、は組の皆さんから、小樽色内小学校のクラス全員に手紙が届きました。は組の皆さんからの京都弁の手紙は、クラスだけでなく、他のクラスにも伝わり、変な言葉を話す児童として見るのではなく、日本各地には方言があることをクラス全員で学びました。 松本先生と皆さんの優しいお気持ちを忘れることができません。 この時の手紙は、職員室でも話題になりました。小樽色内小学校のクラス全員では組の皆さんに返事を出しました。すると、今度はは組の皆さんが描いてくれた絵が届き、クラスは大騒ぎになりました。富裕小学校は組の皆さんが描いてくれた画用紙の大きさにクラスだけではなく、職員室の先生達にも驚きの声が挙がったそうです。当時の小樽では、小学校の低学年生の図画工作の授業では、B4のざら紙に描いていました。高学年からB4の大きさの画用紙に描いていました。富裕小学校は組の皆さんから送られてきた絵は小樽市内の教職員の研修用の資料として発表されました。中学になった時、図画工作の先生から、富裕小学校の図画工作の授業のことを尋ねられ私はその先生から少し丁寧な指導を受けることができました。しかし、その時の手紙と絵は、残念にも中学1年の5月に小樽色内小学校の大火事で焼失してしまいまいました。木造の小学校は、数々の思い出の物は、あっというまに私達が見ている前で燃えてしまいました。あの絵は小樽だけでなく北海道の図画工作の授業や他の授業にも大きな影響を与えたと思います。は組の松本先生やクラスの皆さん、ほんまにおおきに、ありがとうございます。 |