例)教室の窓からスカイツリーが見えました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白教室: | 南校舎 |
教室: | 池縁先生元気かなあ |
教室: | 木造校舎の暖房は教室の中央に 設置される。まきストーブだった。 雪の日はそこでみんな手袋を乾かした |
教室: | ストーブの近くには、生徒が たくさん集まって、暖まって いました。でも、ストーブの 近くの席になると、机の脚が とても熱くなりました笑 |
教室: | 階上にあった教室の窓から銀杏の大木?があり私の家が学校の前にあったため松原先生と共に家に洗濯竿を取りに行き窓から銀杏の葉を落した思い出が昨日のように。82歳 |
教室: | 机は、木製で、二人掛け、天板は、一枚で |
教室: | ここの言葉の教室の先生にものすごくお世話になった。 |
教室: | ベランダがあったので考えると危ない |
教室: | さすがに古い。壁とか結構剥がれてる。 |
教室: | 運動会前の緊張感 |
恋: | 好きな2つ上の人がいました今はもう思い出です。 |
校庭: | 折り紙片を隠して宝探しした記憶が。金、銀、赤等の色によって点数が決まってて、必死に探した。宝探しが終わった数日してから見つかるのもあって、そんな時はちょっとうれしい気分になったね。 |
感謝: | 修学旅行で乗った観光バスの東急鯱バスさんに感謝します。その時以来今でも鯱バスさんとお付き合いしており、吉本新喜劇との共演をもらったり毎年鯱バス様の忘年会に歌のゲストで呼んでもらったりで。一部は伊丹市バスのクラスや学年もあったというが。名古屋、豊田自動車工場、犬山城に行って「喜月」という旅館に泊まった。現在は「八勝閣みずのを」という名前に変わったが。そこで部屋での寝る場所を各自で勝手に決めないように、食事時に鯱バスさんが主催の抽選会をして景品と寝る場所も同じ番号の所にするとなった。私が希望してた一番奥端の窓側である犬山城と木曽川の前に行きたかった。でも、抽選で当った所になる。窓側端は景色の眺めが良いから特等席になる。抽選は東急賞、犬山賞、名古屋賞、豊田賞、ハズレだった。1等は東急賞で景品にはメロン狩りツアーもあったと思う。(東急賞でも何番ってあったから)寝る場所は床の間横の端で景色が見える所。2等は犬山賞だった。これが自分が望んでいた所。一番奥端の窓側。景品は木曽川鵜飼の乗船券もあった。3等は名古屋賞で出入りやトイレに便利な一番入口側の端。景品は金鯱グッズ。4等は豊田賞で自動車グッズが景品。寝場所は2人だけが並んでいる所。ハズレは真ん中の寝る場所。4人1列が多かったから真ん中2人がハズレ。残念賞はありだった。でも、真ん中は両方と話せるから絶対に真ん中がいい!端ばかり入賞にするのはおかしいという申し立てもあった。しかし、これから大人になっていく子供達には社会では座席の順があって、入口から最も遠い所や端が「上座」になることを学んでもらうことだった。子供の世界だから「特等席」と言ったが大人の社会では「上座」と呼ぶこと。先生からは修学旅行は学問を修めると書くからそういうことになったとの回答だった。辻は今だから言えることだが、実は抽選会で鯱バスにゴマすって、一番窓側端の犬山城の前に当たるようにして下さい!って抽選を取ってもらってて「インチキ」してた。 |
プール: | 6年生の夏休みの時にプールができた。そのため完成後の2学期に雨でも授業があり、寒い時に泳いだ思い出があります。 |
音楽室: | 音楽室と放送室は一番「出る」ことで有名だった。牢屋あとだから仕方ないよね! |
飼育小屋: | 飼育係だった私は合鴨とアヒルを可愛がっていましたがある日フェンスに空いた穴から野犬が忍び込んでアヒル達を襲ってしまって涙が止まりませんでした。 |
教室: | 2016年の卒業生です。当時は、低学年の時にいじめられて、絶望したことがありました。 |
体育館: | その日本語教師、「私がついてるから大丈夫」とかこれまた頭のおかしなことを女の子に言っていたらしい。 |
教室: | 6年の時におもろい先生から死ぬほどクレンザーをやらされましたw |
職員室: | 職員室の左隣りに登りの階段があって、入らないように禁止されてるんですが、友達と一緒に登った事があります。そこは不思議な部屋で、部屋自体が段々になっていて、その段々に縄文土器のような大きな土器がズラッと並んでいました。右上には屋上かどこかに通じるドアがありました。あの空間はなんだったのか。今でもよく思い出します。 |