例)暖房器具がなくて石油ストーブでした。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白教室: | 確か小学生4年生までは木造2階建ての校舎でした。5.6年になると教室が足らなくなり、校庭の一部に2階建て4クラス分の建物が出来ました。その後、さらに教室が足らなくなり、プレハブ校舎(平屋)が南棟か増築部分されましたの子どもが多かったんでしょうね。 |
教室: | 雨の日の昼休みは、2組では、男子でも、お手玉や、おはじき、リリアン編みをしていた。 |
教室: | 懐かしいなあ 六ヶ所に引っ越してきて、3年生の6月から2年弱過ごしました。楽しいこと、悲しいこと、たくさん思い出があって今でも忘れられないです。 できれば閉校になる前にもう一度行ってみたかった。 みんな元気にしてるかな |
教室: | 卒業して50年くらいになります。4年生だったと思いますが校舎が火事で全焼して、前田や平野小学校へ分散されたことが今でも思い出されます。 |
教室: | 学期末に油引きをしていた。 |
教室: | 屋上から富士山が見えました |
教室: | 5年生の時に東京から転校して来ました。 黄色い体操着に驚いたのを覚えています。 |
教室: | 幸い柳沢の仲間がいてくれた |
教室: | 床も机も窓枠も、全て木製でした |
教室: | 教室がとても狭くて落ち着いた |
体育館: | 小2か小1の時校舎工事で体育館で勉強してました!体育の跳び箱すごく頑張った記憶が笑6年生送る会でカツラ被って滑った記憶もありますよ! |
運動会: | 何年生か忘れたけど校庭で杏里の悲しみがとまらないという曲でなにかクラスで踊りをした記憶があります。 |
校庭: | おろ小は毎日のようにボール運動をしていたので、 肩がとても強い人ばかりだった。 |
保健室: | 休み時間はヒマな人のたまり場でした。 |
告白: | 私はずっとあなたのことが好きでした |
教室: | 昭和30年代の頃の用海小学校は北にせ正門がありレンガ造りの丸い池があり冬場凍った時氷の上で遊びました。放送部が昼休みには第三の男のテーマ曲を流していました。一クラス五十人以上でした。給食は米国の救援物資の脱脂粉乳でした。今のような給食はレストランのようで羨ましいですね。 |
体育館: | 雪が多い時、ドッチボールで楽しみ、卒業式には、アコーディオンで演奏をした記憶が有ります? |
恋: | 「アイハブア〇〇」 「アイハブア〇〇」 「oh」 「ラブカップル」 「アイハブア〇〇」 「アイハブア〇〇」 「oh」 「ラブカップル」 「ラブカップル~ラブカップル~」 「oh」 「ラブラブラブラブラブカップル」 など付き合ってるふたりに向かって歌いました(笑) |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
屋上: | 屋上はありませんでした。業者さんが屋根の上に上がっているのは見たことがあります。 |