油谷町立石原小学校の教室

懐かしい油谷町立石原小学校の記憶を共有するページです。

油谷町立石原小学校の教室

油谷町立石原小学校の教室での様々な思い出を書き込んでください。懐かしい想い出をぜびみなさんと共有してください。例えば教室にあった不思議なものや風景など教えてください。

油谷町立石原小学校
教室の思い出

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例)掃除用具入れのゴキブリホイホイがいつもいっぱいでした。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の教室での記憶

教室での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 教室での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
教室壁がよくずれる
教室1年1組 担任は小西ひろこ先生 家の事情で2年生の夏に転校をしましたが、当時は木造校舎で冬休み前の大掃除時に外に積もった雪を校舎に入れ水代わりに使った記憶があります。
教室小高い山の上の学校だったので、教室からの風景もよく、浅茅湾が見えていた。 たまに、白い水上飛行艇が離着陸することがあり、教室から皆で見ていた。
教室(2014年卒)夏休み明けのフローリングは大変オイリーでしたね(笑)
教室担任の先生が授業の合間を見て、ガリ版でガリガリしていたのを思い出す。パソコンが当たり前の今、手書きで定期的に通信を出してくれていた先生たち大変だっただろうな。
教室
教室明上先生に計算ノート出さなくて怒られた
教室6-1の時廊下付きの教室だった
教室給食の時、先生がストーブの上でパンを焼いてくれました!
教室木造校舎の写真を持っている方いませんか?もう一度みたいです。ギシギシきしむ階段の音が好きでした。

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
給食個装されてるチーズについてる花の写真集めてました。
体育館体育館裏の細い道を秘密基地にしてた。
トイレポットン便所だった。
図書室現小6です! 今は、図書クイズって言って、それに正解して、ポイントを貯めると、ノートとか、鉛筆が貰えるんですよ♪
飼育小屋もん吉って名前の猿を飼っていましたよね?
校庭球技大会の結果が2組の順位が2位だったので悔しい思いでした。
音楽室都留市が誕生したばかりの頃で、音楽室がどこにあったの知らない。講堂に大きなピアノが置いてあったので、これが音楽室として使われていたのではないでしょうか。
文化祭今では、中条フェスティバルというのがあるみたいですね。
校庭希望の塔というオブジェがあって創立50年の時に下にタイムカプセルを埋めたような記憶があります。100周年になったら開けてみるという話があったのですがどうなったのかな。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。


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