珠洲市立みさき小学校の文化祭

懐かしい珠洲市立みさき小学校の記憶を共有するページです。

珠洲市立みさき小学校の文化祭

珠洲市立みさき小学校にいたときやった忘れられない学園祭や文化祭、そこで行った催し物一生懸命準備したのお話を書き残してみませんか。

珠洲市立みさき小学校
文化祭の思い出

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例)学園祭でやったライブが忘れられません。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

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うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の文化祭での記憶

文化祭での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 文化祭での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
文化祭連坊祭りで店番忙しくてバタバタだったけど、普通に楽しかったよね!お医者さんみたいに白衣着て校舎練り歩いてスタンプ押すっていうお店出したときは凄く暑くて死にかけたけど、めちゃくちゃ楽しかったw
文化祭文化祭ではないけど、『よころっ子祭り』っていうのがあった。3年生以上は出し物をしてた。6年生は体育館使えて、PTAの工作とかもあった。私は4年生から卒業までコロナでできなかったけど、復活したら教えてください。
文化祭なかったです
文化祭片小フェスティバルとアプロの歌
文化祭文化祭という名前じゃなかったけど、学年、学校ごとの発表会があって「ごんぎつね」のミュージカルをしました。小道具や背景の絵もみんなでつくって先生たちもすごく協力してくれてなんだかんだ楽しかった思い出です。ミュージカルだから歌も当時の音楽の先生が作詞作曲してくれて、今もそれが書かれた冊子はもっています。卒業まえにはみんなでプールサイドの壁にごんぎつねの絵を描いたことも覚えています。今も残っているかなー?
文化祭「きとたこまるさん」という出し物があったの覚えてるかな?出演した人の名前を組み合わせたタイトルの「きとたこまるさん」ホームドラマみたいで楽しかった
文化祭3年生ぐらいの時に和太鼓の発表をした。今でもやってるかな
文化祭学芸会で着る打掛を、母が作ってくれたっけ…
文化祭アリババと40人の盗賊
文化祭学園祭やら文化祭はなかった

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
校庭コンクリ階段にあった白い滑り台、下から登れる上級生がえらくカッコ良かったよなあ。S49卒
伝説私が3年生の頃の担任がキレて教室の窓割ったのはいい思い出
職員室よくわかんないけど、めっちゃクーラーが効いてた。
トイレ東京都北区立第三岩淵小学校のトイレ
卒業式中学受験をして皆んなとは一応会えるとはいえ別れるっていうことは悲しいですなぁ
いつの間にか好きな人が晒されていました。人によっていい人も居ると思いますが。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。
校庭めっちゃ狭い校庭やったな
音楽室黒板のうえの二人の体に画鋲がささっている
プール冬はプールに木の蓋をして運動場にしました。 二年生のころ佐々木先生の足につかまって泳ぎを覚えました☺


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