鹿児島県立樋脇高等学校の文化祭

懐かしい鹿児島県立樋脇高等学校の記憶を共有するページです。

鹿児島県立樋脇高等学校の文化祭

鹿児島県立樋脇高等学校にいたときやった楽しい文化祭や学園祭、そこで行った催し物一生懸命準備した思い出を書き込んでください。

鹿児島県立樋脇高等学校
文化祭の思い出

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例)苦労して作ったクレープの模擬店が大好評で楽しかったです。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の高校の文化祭での記憶

文化祭での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 文化祭での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
文化祭カラオケ全校生徒の前で歌ったなぁー!
文化祭一人で引き語りをやったことがあります。
文化祭文化祭は商業高校らしく、仕入れた野菜を安く販売したりして、ご近所の主婦が殺到してました。
文化祭「葺高祭(ふきこうさい)」と言っていて、毎年5月に行われていた。1年の時、卒業生でジャズピアニストの小曽根真さんが来られ、講堂で講演と演奏会があった。2年の時は、元プロ野球の317勝投手、鈴木啓示さんの講演会があった。そして3年の時は高校の創立50周年の記念式典が行われた。
文化祭高3の時、急接近してきた女子がいたなぁ、、、
文化祭非公開の文化祭で関係者や在校生の家族ぐらいしか呼べなかった
文化祭ESS クラブで英語劇をしました。
文化祭卒業生ならぬ中退生のヤンチャな方々が、ヤンチャなお召し物を着けて、ヤンチャな乗り物で乱入なさった思い出。背中の金刺繍の文字が忘れられません。
文化祭文化祭、体育祭
文化祭夜中まで頑張った プラネタリウム

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
教室調理実習室の冷蔵庫に、5年物と10年物の牛乳があったのは良い思い出です。
怪談本館三回の男子トイレでは度々黒いビニールのような質感を持った大人ほどの背丈をしたモノが目撃されていた。私も一度目撃したが、その日のうちに体調を崩した。今現在も見られるのかは知らないが、今でも謎である。
教室昭和41年入学当時は、1学年5クラスで1組40~60名と書き込みしたら、各組の人数が細かく訂正されていました。有難う御座いました。その5クラスの中で、次の授業が始まる直前まで騒いでいて、粛々と授業準備をしていた4組・5組の皆さん、迷惑をお掛けしました。by隣の3組
教室三方向が、窓の謎の教室。壁なのは入口がある西側だけ。
入学式入学式、校歌とか、在校生の方々が歌わない。入学して、それがある意味伝統にw
体育館体育館の隣りで、家畜の飼育していたので、糞尿の匂いが凄かった。
怪談うぃん
職員室男性の先生が多くて、タバコ
伝説葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね!
卒業式当時、アイウエオ順で、整列していたので、自分が、クラス代表で、受け取りましたー。余りにも大人しかった自分ですが、今思ったら、良き、人生経験をさせてもらえたです。


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