例)朝礼で校長先生の話が長いときは体調が悪くなったふりをして保健室へ行く人がいました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白校庭: | 校舎の入り口、シンメトリーの真ん中、正面玄関は、来訪者と教職員の入り口。その正面玄関を目隠しするように、オンコ松が飢えてあって、隣に、アマチュア無線の鉄塔が建っていました。JA8YACがコールサインでした。 |
校庭: | なかったよね? |
校庭: | 野球部にいた時の思い出 |
校庭: | 球技大会の時、寒い日にコートを羽織ってると怒られてました。 |
校庭: | 綿100他%のLincolnの開襟シャツが校則違反だとかいわれて、ひっしでていこうした |
校庭: | 体育祭の後にパネルの前でクラスみんなと撮った集合写真が最高でした。 |
校庭: | S47年頃、土曜日放課後に栃女高とフォークダンスが開催されていた。サッカー部だった私は照れ隠しで硬派ふり、ダンスに行きたい気持ちをグッと堪え、校庭の塀の外で見ていた栃女生にカッコ良い所を見せようとして、ボールでは無く土を蹴って捻挫•••恥ずかしかった。 |
校庭: | セルジオ越後さんがサッカーの指導にきた。 |
校庭: | 校庭らしき校庭はなかった。 |
校庭: | 授業の合間、校門(昭和の時代)の横にあった商店に飲み物を買いに行くために塀を乗り越えた記憶があります。 |
トイレ: | 昔の校舎は「トイレ」というより汲み取り式の「便所」で、何故か決まった個室(大) の中に靴下が落ちていた。休み時間、「便所」に幾度に裸足になる奴がいて「ソイツじゃないか?」と噂になった。ソイツだった。まさかとは思ったが、どうやら用を足したあと自分の履いてた「靴下」を「トイレットペーパー」の代わりに使っていたそうだ。ソイツのクラスメイトはソイツの事を陰で「クソシタ・クツシタ」と呼び気持ち悪がり、卒業アルバムには「オェ!」と書かれていた。 |
図書室: | 記憶がないだけど、図書室ってどこにあったっけ。 |
プール: | このころはまだプールはありませんでした |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |
伝説: | 宮藤官九郎さんをお招きし、体育館で講演をしていただいたことがあります。 |
文化祭: | やっぱり仮装行列ですね。夏休みも学校に行ってみんなで準備した。 |
下駄箱: | 新校舎になって下駄箱が地下になってから、夏は臭かった。女子校と思えぬほど。 |
告白: | 在学中は毎日死ぬ思いで生きていました。登校するとき帰宅するときに意味もわからず泣いてしまったり。精神病のことは親にもついぞ理解されませんでした。卒業してからはこの三年間の意味を考えて絶望しました。それからしばらくはリハビリでした。しばらくは道ゆく人とすれ違うだけで吐きました。高校の名前を見て吐かなくなったのもわりと最近です。今は元気でやっています。趣味がなければ多分死んでいたでしょう。親とはその点で永遠に分かり合えないですが折り合いはつけられました。後悔もしていません。これが私の高校生活でした。さようなら。 |
屋上: | 屋上あると思ったら、ありませんでした。 |
恋: | 〇〇ちゃんかわいい |