大阪市立中本小学校の理科室

懐かしい大阪市立中本小学校の記憶を共有するページです。

大阪市立中本小学校の理科室

大阪市立中本小学校の理科室での色褪せない記憶を書き残してみませんか。古き良き想い出をぜび皆さんと共有してください。例えば理科室にあった不思議なものや雰囲気や匂い怪談話や伝説など教えてください。

大阪市立中本小学校
理科室の思い出

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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の理科室での記憶

理科室での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 理科室での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
理科室授業が緊張した
理科室理科室は音楽室の下にあった。あと家庭科室が同じ建物だった。今もあの建物だけ残ってるんだよね。外でなーべーらー育ててた。
理科室眩しかった
理科室理科室の避難訓練のときに、もっとリアリティのある想定がいいなあと友達と話して、アルコールランプをつけておいておいたら、ちょっとは火事ぽくなるかなあと、馬鹿な話をしていました。
理科室理科の先生が、アニオタ(女)笑った
理科室有鹿太郎と有鹿次郎がいますw 今の理科の先生が実験器具を割るなど最悪の先生です。
理科室黒曜石を見せてもらいました とっても綺麗でした
理科室炎色反応
理科室休み時間にフラスコとかを眺めてた記憶が……(o^^o)
理科室理科室入口の天井に焦げ跡がありました。科学クラブの私たちが水素風船て焦がしました。

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
音楽室円形校舎懐かしい!
校庭学年関係なく遊んでいました
プールプール掃除が大変でした!ですが、楽しいです。
校庭1973年巨人軍を引退した長嶋茂雄さんが、来校され、野球スポーツ少年団にノックをして頂いた。
運動会2024年の5年生のソーラン節
僕は顔が女子みたいで男の子から虐められてて助けてくれたのが初恋の人ですここではRといいますあとは名前のまんまです
教室皆結婚しているのかな。
教室同級生はみんな70歳になりましたね、ここを見ていてくれたら嬉しいです。
給食給食の余りは自分の分を完食した人がおかわりできるルールだったクラスで早食いがクセになった。早く食べるのを妨害する為笑わせる人もいたが牛乳を霧状に吹き出す大惨事も起きた。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。


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