例)こっそりうちに持って帰ったことがあります。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白給食: | カミカミごぼうサラダが、マジでおいしくて、大好きでした!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! |
給食: | 手巻き寿司の時、梅のチューブをじかで吸ってる子がいた |
給食: | もうン十年前ですが、とても美味しかった記憶があります。ザンギの日が楽しみだったな。夏はアイスクリームが出たり、5月には柏餅、3月には桜餅とか、季節に応じたものがあったりして今思うと粋だった。 |
給食: | 揚げパン美味しかった✨ソフト麺懐かしい |
給食: | セロリの入ったスープが飲めませんでした。 |
給食: | よく牛乳早飲み競争して2秒まで極めるやつがおった。いつもそいつと競争してた |
給食: | やまざきゆいのかおにぎゅうにゅうをぬらして |
給食: | 冷凍みかんおいしかったなぁ(*´ω`*) |
給食: | 給食は5年生から始まりました。皆、貧しかったから本当に美味しかったのを憶えてます。 |
給食: | 給食当番の時、誰かが、当番の人も、取りに行かなくては、ならなくて、自分のがきて、大盛りにしたことが、あった! |
教室: | 最初の教室、60年以上前の話。各教室の蛇腹の仕切りを外して、学芸会、その他、祝典など色々やりましたね。 |
保健室: | 保健室でうんちもらしたことがありました…先生がふいてくれました!保健室で嘔吐したこともあります!保健室の床がきたなくなりました |
音楽室: | 前田(旧姓 林田)美子先生の思い出 |
告白: | これ私たちの代なら「あぁあの先生か」ってなると思います笑笑担任がセクハラしてて嫌だった。女子ばっか甘やかしてすごく気持ち悪かった。同じクラスの人なら覚えてると思うけど校長に言っても何もしてくれなかったですよね。 |
告白: | 今、思い出した、五年生ときの友達に裏切りられました。卒業するころには、女の子の友達にいなくなりました。淋しいかったです、加茂中学校に行ったです。親にしゃべった駄目って言われたみたい。一人でした。 |
図工室: | 晴れている日は、図工室の一番奥(水道があるところ)の窓から、富士山と松の木が一緒に見えた |
体育館: | 体育館前に謎のエレベーターありましたよね?あれ、じつは地下に繋がってる入り口だって話ずっと信じてたんですけど、いまだになんなのかわかってないんですよね |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
給食: | おいしくて、残したことはありませんでした。 |
校庭: | 冬に転がり山でスキーをした |