例)牛乳一気飲み競争をしました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白給食: | たまの、「ぜんざい」が、楽しみでした。よく掻き混ぜてないので最初は、汁ばかり後のほうは具合だくさんでした。 |
給食: | 3年の時イカの姿煮が出てみた目のグロさで食えなかったオレ、担任の峰岸(20代女)が食え食え五月蠅く、拒否したがクラスの悪党男子どもが昼休み中オレを追い回し無理やり口をこじ開けつっこもうとしたりしたが |
給食: | ココア揚げパン、アップルチキン、海藻サラダ、ABCスープ、牛乳のメニューが人気だった。 |
給食: | セレクト給食の盛り上がり感。 |
給食: | 昭和50年代はアルマイトの食器で |
給食: | パン屋へパンお取りいった |
給食: | たまに、食べない時もありました。 |
給食: | 冷凍みかん美味しかった |
給食: | ジャージャー麺 |
給食: | 友達の鼻から饂飩がでてきたこと。 |
給食: | 1人に1つ銀色のアルミ容器に入っているご飯が配られていた。温かかったような…。パンも1人分ずつ透明な袋にパックされていたと思う。 |
プール: | 毎年の春にスバメが来ます |
職員室: | 小学4年の時道徳の時間がありました。担任山口猛先生は生徒に一人ずつ職員室に来るよう言って職員室の方に帰っていきました。私も順番で職員室に行くと山口先生が机に座っていて何もせず教室に帰っていいと言われました。 後でわかったのですが、職員室の床に新聞紙が落としてあったのを気付いてかたづけるか試していたようです。私は気づきませんでした。 |
謝罪: | H先生、色々止められなかった。後悔してます申し訳なかった。 |
謝罪: | うん |
怪談: | 実際に僕が体験した話なのですが、掃除の時間に当時僕の担当はトイレだったんです。で、僕以外に田島(仮)クンがいたんですけど僕は教室に行って戻ってこない田島を呼びに行ったんですけど戻ったら田島がいたんですよ。「なんだかくれてたのかと言ったら」田島が「個室に入ったじゃないか」って言いだして僕は教室に田島を探しに行ったのに個室に入ることは不可能でした。後日話を聞くと田島は一歩もトイレから出てなくてずっと水道を洗ってたらしく途中で僕が個室に入って出てこないから開けたらだれもいなくてそのタイミングでぼくがトイレに入ってきたらしいです。もちろん僕は個室に入っていないしそもそも田島は最初の五分くらいしかトイレにいなかったのにずっといたといいはっています |
体育館: | ドッチボールの試合で自分の嫌いな子に思い切りボールをぶつけるのが快感だった。 |
体育館: | 6年生全員で校歌を彫刻刀で掘りました。体育館に飾ってくれたけど、今もあるのかなぁ・・・ |
下駄箱: | 下駄箱というか…玄関に池っていうか水槽っていうか… 鯉かな…金魚かな…いたよね… |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |