例)放送装置がおいてある。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白職員室: | 前PTA 会長してました |
職員室: | 職員室の下の半地下の部屋に降りて |
職員室: | 4年生から6年生の3年間いじめられていた。5年6年担任の中里哲也はいじめがあっても知らん顔で皆と一緒に笑ってるだけ。子供ながらにこの先生はだめだと思った。 |
職員室: | ららら |
職員室: | 職員室は生徒はあまり出入りするきかいがないので行くときはいつも緊張していました |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
職員室: | 保健の先生の机に前いた先生の写真が貼ってあった! |
職員室: | 居ないっす |
職員室: | 辞書とかコピー機とかあったな~ |
職員室: | 1年の頃名前似てる先生がいて間違えないか心配だったわ |
伝説: | 昔 |
給食: | 本当に美味しかった!中でも、三角チーズパンと、ミルメークコーヒーが最高! |
体育館: | 凄い小さくて、屋内球技クラブと、卓球クラブとマーチングクラブが一緒にやってたので、ごちゃごちゃ。マーチングの音楽と、バスケと音パネェ。卓球やってると、バスケボールが飛んでくるʬʬʬ |
プール: | 寒い時期こそプール |
怪談: | あー一回でもいいから、見てみたいなー、ていうか八都小に、お化けって、いるの。 |
恋: | 大好きやったのに学芸会の日に頬を平手打ちしてしまいました。それから疎遠になってしまい、、中学で同じクラスになれずでしたが、ずーっと好きでした。皆の前で叩いてしまったことを本意でなかったと謝りたい。 |
卒業式: | 担任の先生と別れるのが辛かったです、、。そして6年間成長させてくれた母校の氏小様、ありがとうございました!大志桜さん、約10年間、これからの小学生の見守りを宜しくお願いします |
屋上: | 屋上にヒビが入っていて、校庭からもどこからも見えるので、特に低学年は、屋上が壊れるのではないかと怯えていた。 |
体育館: | 竹馬や一輪車がありました |
運動会: | 狭い校庭でしたが、それなりに工夫されて楽しい運動会でした。 ある時、綱引きの綱が突然切れるというハプニング、急遽縛って再開したものの、必ず同じ方向が必ず負けると言う結果となってしまいました。 運動神経の無い私は徒競走なんていつもビリ、でも帰りに参加賞の鉛筆だったかな?あれは嬉しかったです。 |