例)学校の記録的事件 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白記録: | 学校近くの駄菓子屋?マミーが無くなっていた。。。。 神立も大分変わったな〜 |
記録: | 朝マラソン、低学年はストローで回数数える |
記録: | やほやほ |
記録: | 20周年記念で下敷きもらった、あれもう無いだろな~。20周年凄いって思ってたけど、娘の小学校50周年もうすぐだ。 |
記録: | トランペット少年の映画の撮影が行われた我が母校 |
記録: | コロナの時にほかの学校が次々に運動会を中止したときに、春の運動会を秋の開催にしました。その時のことが新聞に載りました(地方紙) |
記録: | キーボー島制覇できて、嬉しかった! |
記録: | 2023年小学5年生の「エコバッグづくり 観光をテーマに」という学習で、TOKYO SHIBUYA pouch Be Fabulousという会社とコラボしたことが、新聞に載り、テレビ(ニュース)でも取り上げられました。 |
記録: | 60代ですが、昭和40年後半の岩沼小学校では今では考えられない体罰や人権侵害が多々目撃してきました、特に女性教諭に多かった記憶が残ってます、例えば中国さながらの「私は忘れ物チャンピオンです」と腹側、背中側にサンドイッチマンの格好で学校中の廊下を引きずり回した太田先生、頬にマジックで落書き体罰の、若かった佐々木先生、物差しで頭を叩く音楽教師等々、愛のないヒステリックな教師を目撃してきましたが、今考えるとすごい時代でした。 |
記録: | 1年生の時にじゃんけん大会で1位をとった! |
校庭: | 1946~1951在学 |
トイレ: | 掃除の時にマジックリンを貸してほしくて男子トイレ入ったら「おまっ、変態!」って叫ばれましたw |
校庭: | 休み時間にはよほど悪天候でなければ、女子は決まってゴムだんをしました。毎回ゴムを持参してくれていたのは誰だったのでしょう?ありがとうございました。 |
記録: | 生徒数 |
恋: | 2017年の卒業生です。 |
プール: | 真ん中に島がありました。できた当初はそれが売りでしたよー☺️ |
給食: | 後期給食委員委員長でした)ドヤッ |
飼育小屋: | アヒルとちゃぼと雉と鶏がいました |
教室: | 休み時間に田畑先生が、生徒の耳かきを してくれた。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |