新居浜市立金栄小学校の運動会

懐かしい新居浜市立金栄小学校の記憶を共有するページです。

新居浜市立金栄小学校の運動会

新居浜市立金栄小学校当時やった楽しい運動会の種目、みんなで苦労した運動会までの練習等忘れられない運動会に関する記憶をつづってください

新居浜市立金栄小学校
運動会の思い出

※ユーザ名と削除パスワードは必須ではありません。

例)お弁当おいしかった。










[注意]個人を特定できる投稿・誹謗中傷・その他不適切な書き込みは削除いたします。またそうした不愉快な書き込みを見つけた方は「問い合わせ」より知らせていただければ削除いたしますのでご協力よろしくお願いいたします。

その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の運動会での記憶

運動会での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 運動会での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
運動会やまざきゆいちゃんのうんこもれ
運動会ソーラン節踊るのが痛かった!最後に走って退場したし・・・
運動会綱引きの縄が臭かった
運動会必勝白群、燃えろ赤群
運動会数名で中学校の運動会を見に行き、ひどく怒られた。
運動会先生リレーが思い出です。普段全力で走ってるのを見ない先生が以外と早かったりして、面白かったです!
運動会最後の運動会のダンスがもう少し自信を持って踊らなかったのが唯一の後悔です、、
運動会新品の白い足袋を履けるのが何より嬉しかった。徒競走で一着はノート、二着は鉛筆、三着は消しゴム(記憶やや曖昧)を貰えた。紅白リレーや今で言う地区対抗リレーがとても楽しかった。
運動会4連勝からの負けがちょー悔しかった!
運動会狭い校庭でしたが、それなりに工夫されて楽しい運動会でした。 ある時、綱引きの綱が突然切れるというハプニング、急遽縛って再開したものの、必ず同じ方向が必ず負けると言う結果となってしまいました。 運動神経の無い私は徒競走なんていつもビリ、でも帰りに参加賞の鉛筆だったかな?あれは嬉しかったです。

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
謝罪o君!昔、何度も告白をして迷惑掛けてしまいました。ごめんなさい!
校庭緑の砂
校庭私が小6の頃に砂から芝生の校庭に変わりました
プール当時はお盆を過ぎた頃は水泳は寒かった記憶しかない
音楽室卒アルに大口開けて歌っている姿が残ってます(^-^;
トイレトイレの花子と太郎の噂はあったね!ただそれすらほんとなのか甚だ疑問だ!
プールプールの水を使ってスプリンクラーを運転して芝生に水撒きをした初代てす。6年生でした。4年生の時だったか5年生だったか定かではありませんが芝生が成長して校歌もうまれました。
卒業式筆記具を忘れて卒業アルバムの寄せ書きを書くとき先生に借りました。
体育館体育館と講堂が一緒だったと記憶してます。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。


ページの先頭へ