例)夜になると飼育小屋にお化けが出るといううわさがありました。 |
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学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白飼育小屋: | 飼育小屋のウサギ |
飼育小屋: | 私が通っていたときは飼育小屋なんて、ありませんでした!? |
飼育小屋: | 週末や長期休み動物達はどうしてるんでしょうか?当然責任持って毎日誰かがお世話しに来てあげてるんですよね。今やうさぎとネット検索したら飼育の仕方や飼い方すぐ見れます。うさぎだから休みはお世話しなくていいなんておもわないで下さいね。命を育てる大切さを子供達にちゃんと教えてあげてほしい、おもいやりと責任感を持って飼育してほしいと心から願います |
飼育小屋: | ウサギに噛まれました |
飼育小屋: | チャボが何羽かいました。飼育委員会が世話してました。 |
飼育小屋: | 長生きした、にわとりのジャンボ ウサギもたくさんいて、5、6年の時の主事さんがとても面倒見がよくて、たくさん子供が産まれて、小さい小屋を作ってくれて、何匹も無事に育ててくれてたなぁ。 |
飼育小屋: | 昭和50年代在校。当時、孔雀、ホロホロチョウ、ニワトリ、ウサギがいた記憶があります。飼育係の時には山田豆腐店(現在は線路際に移転している豆いちさん)にオカラをもらいに行きましたっけ…懐かしい思い出です。 |
飼育小屋: | 飼育小屋はありませんでした |
飼育小屋: | ヤギ |
飼育小屋: | やぎを飼っていた 名前は「メリーさん」 |
恋: | 乞食の事を"ホイド"と言いました。山下谷の様な所でも"ホイド"は来ました。汚い格好で気持ち悪いので玄関に来たら小銭をめぐんで帰ってもらいました。 |
図書室: | 窓から飼育小屋が見えた |
図書室: | スケートが得意なイケメン男子が転校してきて女子は皆色めき立つ、その中でも隣のクラスのK子と僕と同じクラスのA子が親友で協力して、転校生のK君を図書室に連れ込んで、K子が○○○○触ってとK君の手を強引に掴んで迫っていた現場に居合わせてしまった。現場を僕に見られているのに、それでも止めようとしないK子と逃げられない様に道を塞ぐA子が凄かった。その事があってから僕もA子を特別に意識してしまった。 |
教室: | 教室 |
理科室: | 自分と違うクラスメイトの男子Wさんが授業中に指輪が外れない事件を犯したことがあります。 |
トイレ: | その当時、お化けが出る話で盛り上がったのを今でも思い出します。しかもドッポントイレで臭く、いいイメージはありませんでした。しかし、昭和のイメージを代表するようなところであったと今思います。 |
怪談: | 体育館上の生活科室の窓際におっさんの幽霊が出る。 |
プール: | プールは無くて、福戸小学校のプール借りてた |
感謝: | 感謝ではないのですが、特別支援学級に入れられたことが大人になっても苦しくて辛い思い出として今でも残っています。先生方は、一生懸命に頑張っておられたと思いますが、入れられた事で、今になっても辛いし苦しいと思いを知って頂きたくて、書かせていただきました。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |