楠町立吉部小学校荒滝分校の飼育小屋

懐かしい楠町立吉部小学校荒滝分校の記憶を共有するページです。 楠町立吉部小学校荒滝分校の飼育小屋での懐かしい記憶を教えてください。あの頃の思い出をぜびみなさんと共有してください。例えば飼育小屋で飼っていたペットとの思い出など教えてください。

楠町立吉部小学校荒滝分校
飼育小屋の思い出

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例)夜になると飼育小屋にお化けが出るといううわさがありました。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の飼育小屋での記憶

飼育小屋での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 飼育小屋での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
飼育小屋2013年頃に 飼育小屋が作られたけど 未だに使われてなくて草
飼育小屋ウサギはいないけど思い出が沢山つまっている
飼育小屋飼育小屋なんてない(#`皿´)
飼育小屋飼育小屋に烏骨鶏がいた事
飼育小屋6年の時だったと思う。飼育小屋に高校生だか部外者が侵入して動物が殺される・虐待される事件があり鍵が頑丈になった。犯人が見つかったかどうかは知らないなぁ。
飼育小屋なかよし園がありうさぎあひるにわとりとかいた。 あひるには噴水の中の藻をあげていた記憶が
飼育小屋飼育小屋に七面鳥が飼われていましたね
飼育小屋飼育係で鶏がとても怖かったです蚕を育てていた覚えがあります
飼育小屋イタチかなんかにニワトリがやられてしまった。昭和61年ごろ。
飼育小屋確か、用務員さんが飼育小屋の鍵を掛けるのを忘れて、中にいる鶏や亀が逃げたが、御父兄の協力で、数か月後には、また沢山の鶏などが増えたのを記憶しています。

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
職員室かーぷがすき
図書室結構離れた場所にあってスノコで渡ってたどり着いた思い出。
図工室カラキくんを作った。なんか、中学校にはない糸鋸があった。糸鋸で遊んでるやついた。危なっ!!!
体育館アリーナって呼ぶこと
部活はない☆クラス内恋愛が結構多かったですね、あとはトイレ掃除中に告白してたのを聞いちゃったりしてました
校庭新潟地震のあの日、10歳でした。67歳になった。三階建ての校舎今は無い寂しさ。笹川君、馬場君げんきですか
プール好きな子が泳げなかったので,手を繋いで泳ぎ方を教えました。
運動会今はコロナだからスポーツフェスだけど、スポーツフェスティバルも楽しい
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。
謝罪イジメに加わった連中、全員謝罪して欲しいわ


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