例)学校に伝わる伝説・逸話 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白伝説: | ダーツの旅で撮影きた |
伝説: | 空き缶を入れると10円でてくる機械に入れるもんだから近くの自販機の空き缶あんま入ってなかったような気がした |
伝説: | 何故か俺に似てるだけで、元プロ野球選手のハリボテをクラス全員で作ったらしい |
伝説: | 新町さんは元気なしてんのかな? |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |
伝説: | 生徒会長が壇上でスピーチする時マイクを使わずに、大声で「私は豚が好きです」と言ったよう。 |
伝説: | 山の中の学校なので、赤塚虫という虫が出ると聞いてました。一度部活ハウスで見ました。 |
伝説: | クラスの男子全員で教室の端で行った「写生飛距離競争」、一位は10mも跳んだ |
伝説: | 関係ないかもしれませんが、統合後の都立世田谷泉高校の在校生です。烏山工業からずっと使って来た校舎が建て替えられる事になり、烏山工業の先輩方から受け継いで使っていた工業棟の設備や教室棟が無くなってしまうのがとても寂しく感じてます |
伝説: | 宮藤官九郎さんをお招きし、体育館で講演をしていただいたことがあります。 |
体育館: | 体育館で入学試験を行ったと言うと、同じクラスの女子は驚かれたらしい。 |
屋上: | 屋上のプールに飛び込むと、下の教室にドンドン響いておりました。 |
校庭: | 校庭雑巾かけ ー 運動会の前に雨が降り、校庭に水溜まりができると、雑巾に水を吸わせてバケツに絞る、という作業が懐かしいです。 |
怪談: | ハンドボール場の一見枯れていると思われる木の周り、子供の霊が走り回ってたよね。 |
恋: | 11期生の45才です私が高校一年の時に演劇部の二つ上の先輩のT先輩が好きでした夏休みの合宿の時に二人で肝試しで歩いたり、食欲なかった私にゼリーを買って来てくれたりとっても優しい先輩が好きでした今どうしているのかなぁ?会いたいけど私はすっかり太ってしまったので会えないかなぁ |
職員室: | お世話になった先生ばかりで、1日1回は寄っていたなぁ笑 |
文化祭: | 12期 |
卒業式: | 大舘工業高校の前進、花岡工業高校の卒業生です。大舘工業高校になりやがて統合し、廃校になったのは何とも寂しい限りです。卒業式忘れもしない花工の卒業式。初めてお袋が卒業式を見にきてくれた。その式場で各クラスの優等生が秋田県教育委員会から表彰された。その1人に選ばれ母の前で名前を呼ばれその場で「起立」したことは今でもわすれない。母は既に他界したが決して裕福な家庭ではなかったけど、一生懸命応援してくれた。1カ月の授業料は4,000円だった。式が終わり教室に戻ると電気科の1番だった生徒が代表で貰った「優等生」の「表彰状」を持って来てくれた。それを「お袋」はジッと部屋の片隅でみていた。帰るとき「花岡駅」までの道すがらお袋と並んで歩いた事が今でも懐かしい。 |
運動会: | 応援団に入って学ランで練習した事を思い出します |
体育館: | 毎週、火曜日金曜日バレーボールを追っかけていた1992 年 |