例)入学式に遅刻してしまい大変でした。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白入学式: | 私の入学式は、当時横浜工業高校でした |
入学式: | 入学式では担任から1人1人名前を呼ばれて立ち、最後のクラスの出席番号の最後の女子(クラスによっては男子)まで待ち、それが終わると代表の先生の声で「以上、⚪⚪⚪⚪以下⚪⚪⚪名の入学を許可します。」と言われて、入学を認められる。 |
入学式: | 廊下でケガ |
入学式: | 新設校の為、合格発表は当時の大楠高校が会場でした。入学式当日、初めて三崎口駅に降り立った記憶。駅に近づくにつれ、京急の車窓からの景色がどんどんローカルになるのに慄きました。今は開発が進み、高校周辺も賑やかになりましたね。 |
入学式: | 入学式、校歌とか、在校生の方々が歌わない。入学して、それがある意味伝統にw |
入学式: | 丹尾真斗という架空の生徒が出るといううわさがありました。 |
入学式: | 高校1年生、初めて花輪線の機関車が引く列車に乗り大舘駅で花岡線のジーゼル列車に乗り換えやっと、たどり着いた学校。クラスに入ると授業開始前にドカドカと先輩(2年生)がクラスになだれ込み「お前ら、返事が足りないんだよ。」とまず焼き入れ、皆は「シーン」ただただ下を向いているだけ、やがて朝礼の時1年生はいち早く「体育館」に集合。そこで先輩から、校歌を教示されるが半端な歌い方ではなかった、後ろに反り返り体育館の天井を見ながら大声で歌う。1週間は続いたかな・・・今思えばシゴキでなく早く花岡工業高校(大舘工業高校の前進)の男たれの先輩たちのはっぱだったかもしれない。体育館は「妙に天井がたかかった。」檀上には「番長高谷氏」が学ランに首から茶色のぶっとい組紐をぶら下げ、「俺は男だ。」を誇示していた。体育館は「男」を気づかせる場所だった。そして板敷の廊下を「番長」が足駄(下駄)を履いてお伴を引き連れながら体育館に入ってくる青春の時代であった。男臭さのプンプンする「花校」が懐かしい。今の時代のような陰湿なイジメや派手さのない筋の通った学校で勉強出来た青春だった。先生もみんな筋が通っていた。白は白・黒は黒・・・灰色はない。強烈な個性の集まり「花校」のような学校が復活すればいいな。と思う昨今だ。 |
入学式: | 1993年4月 |
入学式: | 今は、統合され変わったと思うが、入来商の校章とWHO(世界保健機構)のマークが、似ていたと思うのですが?確か蛇は、商業の神様と、言われるので校章になったと、聞いていたが近年コロナ感染症でWHO関係のニュースを見るたびに、入来商業高校とWHOのマークは似ていると思うのですが、私だけでしょうか? |
入学式: | ほとんど知る人がおらず困惑でしたでも今を思い出すと高校の時ばかりです |
体育館: | 今覚えば普通に立派でしたよ |
入学式: | 入学式に遅刻した実績あり |
怪談: | 本物の尼産の怪談をご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。 |
音楽室: | 部活がコーラス部でしたので、毎日通ってました。多分私達が在校した時が全盛期?で関西合唱コンクールで銀まで行けました。もう少しで全国大会でしたが人数が少ない中先輩方のご指導で沢山の思い出があります。夏は吉野山で1週間合宿ありました。毎年定期演奏会も開いていました。私達が卒業後数年で廃部になったとの事でした… |
恋: | 今でも初恋が忘れられません |
入学式: | 今は、統合され変わったと思うが、入来商の校章とWHO(世界保健機構)のマークが、似ていたと思うのですが?確か蛇は、商業の神様と、言われるので校章になったと、聞いていたが近年コロナ感染症でWHO関係のニュースを見るたびに、入来商業高校とWHOのマークは似ていると思うのですが、私だけでしょうか? |
職員室: | B棟2階。 |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |
教室: | 灯油ストーブの話の訂正。(我々のころは2年F組・3年A組)とあるのは(われわれのころは2年F組・3年A組の教室に洗面台がない。)の誤り。お詫びして訂正します。 |
教室: | 教室の床がなぜかピンク |