例)教室の窓からスカイツリーが見えました。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白教室: | 他の富里の小学校は、冷房機器があるのに日吉台小は、扇風機でしたよ〜*\(^o^)/* |
教室: | 教室に石炭ストーブがありました すぐ前の席の子が授業中でも石炭をくべる係でした |
教室: | クラスが増えて部屋が足りなくなって職員室を半分潰して教室がわりにした。職員室とはカーテン一枚で区切られていて毎朝コーヒーの香りが漂っていた |
教室: | やんちゃな子がいて、うるさかった。 |
教室: | 何?うるさいなあ。 でした!!!!!!! |
教室: | 残されて同じ文字何回もかかされたな。 |
教室: | 教室というか校内だが、20分休み?に野球とか運動会の定番『コンバットマーチ』がBGMで流れてたのをはっきり覚えている。 |
教室: | すべて木造で校門正面に勤勉親切!入学式、卒業式は2教室をぶち抜いて挙行、机は木製で二人一組 |
教室: | 昭和41,42年に2,3年生で在籍、その後転校しました。松岡先生という若い女の先生でした。校庭から見えた涌蓋山が懐かしいです。 |
教室: | タイムカプセルは、50年後に開けるはず。是非立ち会いたいです。 |
校庭: | 毎週土曜(?)にローラースケート貸し出しがあり楽しかったの憶えてます。 なんと校庭土じゃなかった! |
職員室: | ああ |
恋: | 小1から小6までおんなじ人と付き合ってました~✨ |
音楽室: | 音楽室の前の青い板の上ですり足で歩いたらえげつい静電気 |
音楽室: | 昭和 6年間 お世話になりました 猪熊先生 |
体育館: | 加茂小の体育館に下はお墓になっていてそこに入ると事故が起きるという噂がありました |
屋上: | 青空給食以外でここ来れた人おる? |
記録: | 昭和50年入学です。令和5年の9月で55歳になります。西本町に住んでました。3年生くらいの時に創立100年でした。教室や廊下の板張りを稲田やよひ先生に雑巾がけさせられてました。懐かしい思い出です。理科室の標本の多さにビックリしてました。生きたカブトガニの授業があり、とても貴重な体験でした。道路側に池のある森がありました。中庭に温室がありサボテンがたくさんありました。温室の隣にイチジクの木があり登ってシコタマ食べたらくちびるが腫れ上がりました。ウサギ小屋がありまして心優しい生徒が家庭で余った野菜を持ってきて与えていたのを覚えています。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
教室: | 1クラスでぎゅうぎゅうで授業受けてたなー笑 |