所在地や連絡先、偏差値等詳しい最新情報を掲載。みなさまから提供いただいた情報も掲載いたします。
卒業年毎の専用ページです。卒業生同志の交流や、同窓会情報、卒業アルバム、クラス名簿など多数のコンテンツがあります。
同窓会の開催情報です。同窓会情報だけでなく、予定が無くてもやりたいという方でも同窓会ホームページを作成できます。
平田 佐貞さん等 富洲原小学校出身の芸能人やスポーツ選手といった有名人、著名人を紹介します。
富洲原小学校の評価をいくつかのカテゴリにわけて評価をしています。また皆様からの評判も掲載します。
体育館の舞台裏、教室の落書き、理科室の匂いや実験器具等、学校の様々な場所での思い出を共有しましょう。
富洲原小学校出身の卒業生が現在どこで活躍されているか、みなさんのご意見をもとに掲載しています。
在校当時の懐かしい写真や同窓会写真、今の学校の風景など無料で共有することが出来ます。
偏差値情報を掲載しております。 最新のデータはもちろん過去の偏差値情報も掲載しております。偏差値の推移もご覧いただけます。
学校関するみなさまの様々な意見を掲載しております。まだアンケートに参加いただいていない方は是非ご協力ください。
tomisuharasyougakkou
校名は、旧三重郡富洲原町を前身とする地区名の「富洲原」に由来する。富洲原小学校は、平成期になり1学年3クラス100人前後の少人数となったが、かつて団塊の世代が在学していた伊勢湾台風の被害があった頃までは、三重県第2位の規模の1学年で7クラス300人以上の児童がいて、全校で約2000人の児童がいるマンモス校であった。少子化の進行と富田一色地区の急激な人口減少と東洋紡績富田工場社宅の宮町自治会の消滅が児童数減少の要因である。卒業生の多くは四日市市立富洲原中学校へ進学する。富洲原小学校を卒業した35年後(年齢が47歳となった年)に講堂で開催される富洲原小学校の同窓会の名称は「三錨会」である。
沿革
明治時代
1876年(明治9年) - 富田一色村の塩役運河沿いに富田一色村と松原村の子供を対象とする一色学校が創立される。(竜泉寺の鐘つき堂の南の酒倉を仮の校舎とした。男性教師が2名であり、男子生徒は44名、女子生徒が13名であった)。
1877年(明治10年) - 天ヶ須賀村に幕末から明治維新後に天ヶ須賀の医師で教育者である野村良意・野村碩胤親子が開校した寺子屋を母体とする天ヶ須賀村の子供のみの天ヶ須賀学校が、天ヶ須賀本町のそろばん教室付近に創立される。(明願寺の山門の両側に2つの教室と教師2名であった)。
1887年(明治20年) - 一色学校を一色尋常小学校と改称する。
1887年(明治20年) - 天ヶ須賀学校を天ヶ須賀簡易科授業所と改称する。
1889年(明治22年) - 町村制の施行で朝明郡富田一色村・朝明郡天ヶ須賀村・朝明郡松原村の3ヵ村が合併した事により朝明郡(その後の三重郡)富洲原村が発足する。
1893年(明治26年) - 一色尋常小学校と天ヶ須賀簡易科授業所が合併して、朝明郡(その後の三重郡)富洲原村立富洲原尋常小学校となる。(教室は富田一色校舎と、天ヶ須賀校舎の各地区に分かれて、4年制であった。男性教師が5名で男子生徒が277名、女子生徒が218名であった)。天ヶ須賀の1年生は、明願寺の山門に通い、2年生は天ヶ須賀本町の校舎の野村医師宅のそばへ、3年生は、龍泉寺鐘つき堂南の学校へ通学して、4年生は小石川材木所付近の一色学校へ通学した。そのあとの4年間は、大矢知村他1か村組合立高等小学校に進学した。
1894年(明治27年) - 富洲原尋常小学校は、龍泉寺の南の校舎から、富田一色地区の大字屋敷に移転した。この校舎は、蛭子町・大黒町・弁天町にまたがり、西側が堀川(塩役運河)に面した位置である。天ヶ須賀地区の生徒は、住吉町の西側にある堤防の道を通って通学していた。
1896年(明治29年) - 三重郡富洲原村立富洲原尋常小学校と富洲原高等小学校の校地を富田一色の大字屋敷の区域に移転する工事が完了する。
1902年(明治35年) - 三重郡富洲原村立富洲原尋常高等小學校に改称される。高等科(2年制)を併設する。
1908年(明治41年) - 義務教育の期間が4年制から6年制に期間が延長となる。
大正時代
1916年(大正5年)9月30日 - 現在地の富田一色地区の甚五兵衛町自治会の区域に新校舎が新築されて、以後に同日を創立記念日とした。校地の買収は、当時富洲原村会議員であった、以下3人の有力者が中心的に取り組んだ。
2代目平田佐次郎(平田紡績社長)
伊藤平治郎(富洲原町議会議員)
渡部与助(富田一色出身の有力者で渡部与助魚問屋を代々経営していた)
川越村高松在住の地主である13代目内田巳巳太郎から再三の懇願の結果、保有していた田圃を譲り受けた土地である。
この甚五兵衛町(富田一色甚五兵衛町自治会)が選ばれた理由は以下である。
富田一色地区
天ヶ須賀地区
松原地区
3地区のいずれの土地にかたよらず、ちょうど3地区の中間に位置したためである。
甚五兵衛町は当時民家もなくて、富田一色の有力者が松原村(松原地区)から大字富田一色として土地を購入して松原地区から富田一色地区に編入して東洋紡績富田工場の敷地作りに使用されたトロッコの設備をそのまま利用して、朝明川より土砂を運搬して造成された土地である。大正時代に大正自由教育が実施される。(校舎の北側を除く周辺には黒松を、西側にポプラを、北と南側にはアカシアが植えられた)。
1923年(大正12年) - 少年団が結成される。富洲原村の町制施行により三重郡富洲原町立富洲原尋常高等小学校となる。
1926年(大正15年) - 富洲原町の役場が、富田一色甚五兵衛町の富洲原尋常小学校の東隣に移転する。富洲原尋常小学校の敷地内に富洲原町立実科高等女学校が創立される。
富洲原尋常小学校(富洲原尋常高等小学校)時代
教科
修身
国語
算術
国史
地理
理科
図画
唱歌
体操
裁縫(女子のみ)
手工
1年生から3年生は、(1)富田一色男組、(2)富田一色女組、(3)天ヶ須賀と松原の男女共学組の3つの学級で編成されていた。4年生から6年生は進学希望者のために、(1)男女組、(2)男組、(3)女組に区分して能力別に学級が編成がされていた。明治42年度生まれは16名が進学した。
昭和時代(戦前)
昭和初期に富洲原小学校の新築工事として以下の校舎が建設された。
第1校舎が新築された。
第2校舎が新築された。
第3校舎が新築された。
第4校舎が新築された。
第5校舎が新築された。
第6校舎が新築される。
1929年(昭和4年)富洲原町議会議員の伊藤平治郎の尽力で完成した「上下水道開通記念池」が設置された。富洲原小学校の第1校舎の西南の方角に1945年(昭和20年)頃まで存在した。
1934年(昭和9年) - 平田紡績社長・富洲原町議会議員の平田佐矩の寄付によって講堂が建設されてこの年に完成する。
1936年(昭和11年) - 講堂が完成。奉安殿が新築される。実験用動物供養塚ができる。
1941年(昭和16年) - 2月11日に三重郡富洲原町が四日市市に併合されて、四日市市の一部の富洲原地区となる。同時に四日市市富洲原尋常高等小学校に改称される。4月に四日市市富洲原国民学校となる。三重郡富洲原町が四日市市に合併して四日市市立の学校となる。軍国主義教育が実施される。三重県遺族会の統計では、平田佐貞など大正世代の若い男性を中心に明治末期から昭和一桁世代の富洲原尋常高等小学校の卒業生が約500人も戦死した。食糧事情の悪化で運動場は甘藷畑・大豆畑・南瓜畑となり生徒が農作業をして、防寒服に使う軍用兎が83羽も飼育されて、講堂は擬装網の作業場となり、高等科の生徒が学徒動員で平田紡績(中島飛行機の戦闘機製造工場)や巽鉄工所の工場で労働したり、女子は東洋紡績富田工場の製造補助や男女でいろいろな仕事で働かされる。
昭和時代(戦後)
1947年(昭和22年)4月に四日市市市立富洲原小学校となる。
1951年(昭和26年) - 学校給食制度により給食室が増築される。
1955年(昭和30年) - 3つの錨の校旗が制定される。三重県下初のミュージックサイレンが設置される。
1959年(昭和34年) - 伊勢湾台風で被災する。富田一色地区出身の富洲原小学校の児童が10名近く死亡する。
1960年(昭和35年) - 管理棟の工事が竣工される。富洲原小学校の校歌が制定される。尾鷲市立尾鷲小学校に次いで、三重県第2位の規模のマンモス校となる(当時は全児童数が約2000人だった)。
1962年(昭和37年) - 水泳用のプールが新築される。
1966年(昭和41年) - 富洲原幼稚園の創設に伴い、富洲原小学校の校舎の一部が園舎となる。特別支援学級(特殊学級)が設置される。
1967年(昭和42年)から1988年(昭和63年)の期間内 - 富洲原小学校の近代化として、校舎の大規模改修工事を徐々に行った。講堂の内外が大改修される。木造校舎から鉄筋校舎が建設される。
1972年(昭和47年) - 通学路が設定される。
昭和40年代〜昭和60年代の期間内に四日市市によって以下の工事が実施された。
普通教室の11教室を建設する工事が実施された。
水泳用の更衣室や女性教師が着替えに使用する更衣室を建設する工事が実施された。
印刷室を建設する工事が実施された。
特別教室である4つの教室を建設する工事が実施された。
児童の衛生面や排便の際の羞恥心がある事を考慮して和式便所から洋式トイレに変更する事となり、洋式の便所施設が完成する。
特別教室である家庭室を建設する工事が実施された。
図工室を建設する工事が実施された。
音楽室を建設する工事が実施された。
学習用のビデオで勉強する視聴覚室が完成する。
1976年(昭和51年) - 学校創立100周年記念式典と記念行事が実施される。創立100周年記念誌が発行される。
1987年(昭和62年) - 当時のニュースで大きく報道された事件で、富洲原小学校に勤務していた37歳男性教師が不倫の末に員弁郡の小学校に勤務する25歳女性教師を殺害する事件が発生した。
マンモス校時代
全盛期の児童数がいた昭和一桁世代から団塊の世代までが在籍した戦中・戦後期(昭和20年代 - 昭和30年代)は以下の児童数であった。
昭和22年度生まれは団塊の世代であった事から、男子201人 女子197人 学年の合計は398人であった。
昭和23年度生まれは団塊の世代の第1次ベビーブームであった事から、男子180人 女子173人 学年の合計が約353人であった。
昭和24年度生まれは団塊の世代であった事から、男子174人 女子166人 学年の合計が340人であった。以上が団塊の世代のベビーブームによるものである。
しかし、優生保護法が成立した1950年(昭和25年)には中絶が合法化された事で出産数が減少した。ポスト団塊世代の昭和25年度生まれは、男子126人 女子140人 学年の合計が266人であった。
昭和26年度生まれは、男子136人 女子130人 学年の合計が266人であった。
昭和27年度生まれは、男子106人 女子117人 学年の合計が223人であった。
四日市市立富洲原小学校の合計児童数が1846人で尾鷲市立尾鷲小学校に次ぐ三重県第2位の生徒数の多さであり、全盛期の富洲原地区は人口が多かった。三重県第2位の7クラス300人以上の児童数がいた。富洲原小学校は三重県第2位の規模のマンモス校だった。
富洲原小学校の児童数の減少
しかし新人類世代になって、核家族化が進み平均兄弟数が2人まで少子化が進行した影響で、四日市市の市政情報センターに依頼した富洲原小学校の児童数の調査の統計では新人類世代~バブル世代の富洲原小学校の卒業生で児童数が一番少ない学年が男子75人で女子が87人の合計児童数が 162人の昭和41年度生まれである。昭和51年発行の富洲原小学校100周年記念誌の記述では149人となっている1966年度(昭和41年生まれ)の丙午によって出生数が減少した学年となっている。新人類世代の最も児童数が多い学年が男子119人で女子94人の合計児童数が213人(昭和35年度生まれ)となっていて、新人類世代の富洲原小学校の児童数は平均4クラスから5クラスの170人体制となる。
団塊ジュニア世代は富田一色地区出身の団塊の世代が富洲原地区外に転出したことで減少し、その結果として子供世代の団塊ジュニアも少数となり平均4クラス160人前後(団塊ジュニア世代の第2次ベビーブームの前後で最も卒業生が多い学年は昭和45年度生まれが185人であり、最も卒業生が少ない学年は昭和50年度生まれの149人である)となり、富洲原地区には他の日本国内と違いベビーブームが発生せず、富洲原地区だけ特別に第2次ベビーブームによるボリュームがなかった。
ポスト団塊ジュニア世代の昭和55年度生まれからは3クラス108人となり、富田一色地区の人口減少と少子化が進み富洲原小学校の児童数が3クラス90人から115人体制となる。
ゆとり世代の平成5年度生まれから平成10年度生まれまでの期間内には天ヶ須賀地区の新興住宅団地の建設で児童数が増加して4クラス120人近くまで回復した。しかし天ヶ須賀の新興住宅団地の住民と富田一色地区の児童数が減少した2003年(平成15年度生まれ)以降のゆとり世代より下の21世紀生まれの世代は2クラスが主流となり児童数80人以下まで少子化が進行している。
平成時代
1990年(平成2年) - 富洲っ子体操(横綱千代の富士の土俵入りのポーズなど運動会で実施された体操)が創作される。
1991年(平成3年) - 体育館が完成する。講堂を社会教育施設に転用する。
1992年(平成4年) - 職員玄関が完成する。3月に最後の4クラス120人以上だった6年生の1979年(昭和54年度生まれ)が卒業して全学年が3クラス体制となる。
1993年(平成5年) - 松原地区東平町出身のPTA会長の発案でPTAが実施した1992年(平成4年度)のバザーの売り上げで1993年(平成5年)4月にアスレチック施設が新設される。富洲原駅の駅名問題がもつれ、校内に侵入した川越町民による講堂への放火未遂で四日市市消防本部の消防車が大量出動する事件が発生する。
1996年(平成6年) - 「富洲っ子希望の池」が完成する。
1996年(平成8年) - 校舎から講堂へ行き講堂から体育館へ行く渡り廊下が完成する。
1997年(平成9年)から1998年(平成10年)までの期間内 - 北校舎前の「緑の広場」が完成する。職員室の東側にも「緑の広場」を建設してクスノキ(楠の木)周辺が整備される。
1999年(平成11年) - 松原門が拡張される。1年おきのクラス替え制度だったが変更される。1年おきのクラス編成では以下の通りだった。
入学前から1年生となった入学時にクラスの編成を実施する。そのまま2年生まで同じ学級で編成される。
2年生から3年生となった進級時にクラス替えを実施する。そのまま4年生まで同じ学級で編成される。
4年生まで5年生となった進級時にクラス替えをする1年おきに改組する制度だった。
その後毎年実施するクラス替え制度に移行される。
2001年(平成13年) - バリアフリー化の改修工事がされる。
2005年(平成17年) - 四日市ぜんそくの被害の参考にする大気汚染を調査する四日市公害観測所が閉鎖される。
2007年(平成19年) - 体育館で自動体外式除細動器(AED)が設置及び教師によって使用されたが体育の授業で心臓発作による6年生男子児童の死亡事故がおきる。
2008年(平成20年) - 毎年防腐剤を塗っていたアスレチック遊具の維持費削減により木材が腐ってきたため事故防止目的でアスレチック遊具が撤去される。
2013年(平成25年)4年生と6年生の教室の本校舎を改造して、富洲原小学校の校舎が富洲原地区の津波避難ビルに指定される。
2014年(平成26年)講堂の内部に住吉町(天ヶ須賀地区)から移転した学童保育所が設置される。
2016年(平成28年)~2017年(平成29年)に北校舎が新しい校舎に改築される。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
※明らかに場所以外に関するの内容、特に学校や生徒への批評や意味不明な投稿は削除させていただきます。
例)東京第一小学校の場合
・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
※平仮名は必須ではありません。追記する場合はカッコ書きでお願いします。
皆さんが本サイトで思い出を語り合われたことのある先生方です。覚えている恩師の名前がいらっしゃいましたら、登録をお願いします。登録は各卒業生のページにある[名前をクリックいただくと感謝をやお礼の言葉を述べるページへ遷移します。(現在工事中)]
マスコットは本サイトの様々なコンテンツを利用することで成長していきます。
割れるまで何度もクリック!!
<姉妹サイト紹介>
四日市市立富洲原小学校がある
三重県四日市市の地域事情