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沿革
前史時代
藺牟田の地層からは翼竜やワニなど爬虫類の化石が発見されている。2008年(平成20年)には獣脚類恐竜の歯や肋骨の化石が発見され、その後もケラトプス類の歯、竜脚類恐竜が相次いで発見された。また、鹿児島県指定天然記念物である「下甑島夜萩円山断崖の白亜系姫浦層群」では断層から8,000万年前の地層が観測され、天然記念物に指定した鹿児島県によると「ユーラシア大陸から切り離された日本列島の成り立ちを考察する上できわめて重要である」とされている。
2015年(平成27年)10月24日にこれらの発見された恐竜の化石を展示する「甑ミュージアム恐竜化石等準備室」が鹿島支所内にオープンした。
古代から中世の藺牟田
奈良時代頃には薩摩国甑島郡が設置され、甑島は上村と下村に分けて統治されていた。この頃には藺牟田という地名自体は見えていないが、現在の鹿島町藺牟田の区域には住民は疎らながらも居住していたとされている。
中世の「薩摩国建久図田帳」によると甑島四十町のうちの二十町に含まれ、宝治2年(1248年)には鎌倉幕府の御家人である小川季能の統治下となった。文禄4年(1595年)には小川氏が田布施郷(現在の南さつま市金峰地域)に移封され、以降は島津氏の直轄領となった。
藺牟田村の成立から町村制施行まで
藺牟田という地名自体は江戸時代より見え、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちであった。寛文4年(1664年)の「郡村高辻帳」では下甑島のうちと記載されており、元禄年間に作成された「元禄国絵図」では下甑村のうちの「伊牟田村」として記載されている。藺牟田村の村高は、延享年間の「三州御治世要覧」によると53石余、明治初期の「旧高旧領取調帳」によると57石余であった。江戸時代の測量家であり、日本全国を測量し地図を作製した伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によれば家数は267戸であったと記録されている。慶長16年(1611年)には甑島郷地頭の管轄下に置かれた。藺牟田には船舶の往来を監視する番所が設置されており、手打の郷士が勤務していた。
藺牟田池には藺草が多く生え、刈り取られた藺草は島外へ出荷されていた。
寛文4年(1664年)には村内にのちの鹿島村の村名の由来となる鹿島神社が創建されたとされているが、境内にある石灯篭には元和8年(1622年)に寄進されたとの表記があることからそれ以前には創建されていたという説もある。
近代の藺牟田
1878年(明治11年)に郡区町村編制法が施行されたのに伴い、藺牟田村に戸長役場が設置されたが、長浜村の戸長役場に統合され、その後1883年(明治16年)に下甑島の全域を管轄する戸長役場が手打に置かれた。
1884年(明治17年)から翌年の1885年(明治18年)にかけて甑島列島の各村は台風が何度も襲来しコメなどの作物が大凶作となり、さらには藺牟田村で天然痘が流行し70名から80名の死者が出るなどの窮地に陥った。鹿児島県は藺牟田村の住民約2,000人以上を種子島、屋久島、高江村などに移住させる計画を立て、翌年1886年(明治19年)には移住が行われた。
1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い、下甑島の全域にあたる手打村、片野浦村、瀬々野浦村、青瀬村、長浜村、藺牟田村の6村の区域より甑島郡下甑村が成立した。それに伴い、それまでの藺牟田村は下甑村の大字「藺牟田」となった。翌年の1890年(明治23年)2月5日には、下甑村の条例「下甑村区会条例」が施行され、町村制第64条及び第114条に基づく区である「第六区」が大字藺牟田一円を区域として設置された。1897年(明治30年)に甑島郡は薩摩郡に編入され、薩摩郡のうちとなった。
第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月28日にはアメリカ軍による機銃掃射が行われ、付近を航行していた漁船の3名が死亡し、3日後の7月31日にはアメリカ軍の爆撃機3機によって爆弾が投下され4名が死亡した(藺牟田空襲)。
終戦後の1947年(昭和22年)には町村制が廃止されたのに伴い、それまでの町村制による区が廃止され、藺牟田の区域を管轄する下甑村の出先機関である第六出張所が設置された。
分村の動きと鹿島村設置
下甑村の中心集落であった手打とは陸路では徒歩連絡すらも困難、海路も荒天時に度々不通となり、かつ手打の役場に行くには往復2泊3日の行程となることもあり、同一の自治体を構成するには著しく不便であった。
分村の動きはかつてからあり、1916年(大正5年)には藺牟田の区域を下甑村から分村する旨の陳情が下甑村に出されており、1946年(昭和21年)には、大字藺牟田一円を区域としていた下甑村第六区の区長から下甑村に対して分村の請願が出されていた。
1949年(昭和24年)1月に行われた下甑村議会において大字藺牟田の区域を下甑村から分村する議案が審議され可決された。3月27日には鹿児島県議会において「第五三号 薩摩郡下甑村の境界変更並びに鹿島村の設置に関する件」が上程され、満場一致で可決された。後日、官報に掲載された「 村の廃置分合」(総理庁告示)には以下のとおり、1949年(昭和24年)4月1日より下甑村大字藺牟田の区域を以て鹿島村を設置する旨内閣総理大臣により告示された。
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地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十四年四月一日から、鹿児島縣薩摩郡下甑村の区域のうち、大字藺牟田の区域をもつて新たに薩摩郡鹿島村を置く旨、鹿児島縣知事から届出があつた。
— 村の廃置分合(昭和24年総理庁告示第52号)
1949年(昭和24年)4月1日に下甑村から大字藺牟田が分立し薩摩郡「鹿島村」が発足。これに伴い、下甑村の大字藺牟田は鹿島村の唯一の大字「藺牟田」となった。鹿島村発足時の人口は2,956人、戸数は545戸であった。財産分与については村有財産を分割して処分することとし、下甑村は鹿島村に7万円を交付した。
村名は既に同じ薩摩郡内に藺牟田村(現在の祁答院町藺牟田)が存在していたことから、混同を避けるため鹿島神社の社名より命名された。
鹿島村設置以降の藺牟田
「鹿島村 (鹿児島県)#歴史」も参照
1951年(昭和26年)に発生したルース台風では、小牟田集落の家屋が全滅し、死者1名、重傷者3名の被害を受けた。1982年(昭和57年)には、芦浜トンネルが開通したことにより、下甑村手打から藺牟田までが初めて道路交通により往来できるようになった。
2004年(平成16年)10月12日に鹿島村が川内市、東郷町、入来町、祁答院町、樋脇町、下甑村、上甑村、里村と新設合併し薩摩川内市が設置された。この市町村合併に伴い設置された法定合併協議会において大字名については「従前の村名を町名とし、これを従前の大字名冠したものをもって、大字とする」と協定され、旧村名である「鹿島村」の村を町に置換え、従前の大字名である藺牟田に冠することとなった。
合併当日の10月12日に鹿児島県の告示である「 字の名称の変更」が鹿児島県公報に掲載された。この告示の規定に基づき即日名称の変更が行われ、大字名が「藺牟田」から薩摩川内市の大字「鹿島町藺牟田」に改称された。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
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例)東京第一小学校の場合
・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
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鹿児島県薩摩川内市の地域事情