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1994年休校
高免小学校は1994年に惜しまれつつ閉校いたしました。1994年休校
沿革
高免の成立と江戸時代
高免という地名は江戸時代より見え、大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。高免は「向面」とも書かれた。村高は「天保郷帳」では5石余、「郡村高辻帳」では5石余、「三州御治世要覧」では24石余、「旧高旧領取調帳」では4石余であった。
安永8年(1779年)に発生した安永大噴火では高免村と古里村(現在の古里町)を結ぶ線上に火口が現れた。集落には火山弾が直撃し家々は炎上して焼失した。村民らは国分・福山・加治木・帖佐・鹿児島へ避難し、火口に近かったものの死者はなかった。なお、噴火当時の向面村の集落の位置については諸説あり、文明溶岩と安永溶岩に覆われていることから特定できていない。高免村の沖では海底が隆起し、安永9年(1778年)までに8つの島(現在の新島)が現れた。
1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、高免村は北大隅郡の所属となった。
町村制施行以後
1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い桜島の東半分の区域にあたる湯之村、野尻村、古里村、有村、黒神村、高免村、瀬戸村、脇村の区域より北大隅郡東桜島村が成立した。それまでの高免村は東桜島村の大字「高免」となった。1897年(明治30年)4月1日には「 鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律」(明治29年法律第55号)によって北大隅郡が鹿児島郡に統合され、東桜島村は鹿児島郡のうちとなった。
1914年(大正3年)1月12日に桜島の爆発が発生し、噴煙は高さ約1万メートルに及んだ(大正大噴火)。爆発当時の高免の人口は300人、戸数は47戸であった。
高免の住民らは11日の夜に地割れや井戸水の水位上昇を確認しており、それを受けて12日の朝には浜之市(現在の霧島市隼人町真孝)へ船で避難し、その後列車で吉松村(現在の湧水町)へ避難した。残留者も船によって救出されており犠牲者はなかった。噴火後、高免に設置されていた宮原小学校の分校(現在の鹿児島市立高免小学校の前身)は5月1日に授業を再開した。また、避難した高免の住民のうち3戸は北種子村(現在の西之表市)の官有地へ移住したほか、有明・志布志や、福山・恒吉・野方、郡山・蒲生・国分などに任意移住した。
1950年(昭和25年)10月1日には東桜島村が鹿児島郡伊敷村とともに鹿児島市に編入された。同年10月18日に鹿児島県公報に掲載された鹿児島県の告示である「 鹿兒島市の一部大字の變更」により、東桜島村が鹿児島市に編入された10月1日に大字高免の区域より新たに鹿児島市の町「高免町」が設置された。
また、この頃の高免と他の集落とを結ぶ交通手段として仕立船と呼ばれる不定期航路があった。市町村合併までは東桜島村、市町村合併後は鹿児島市が運営を行っており、貨客の輸送を行っていた。1957年(昭和32年)に自衛隊によって桜島一周道路が建設されると、1962年(昭和37年)には西桜島村営バスが黒神(現在の黒神町)まで運行されるようになった。1963年(昭和38年)には鹿児島市交通局が運営する鹿児島港・黒神間の黒神航路に新造船「ひまわり」が就航し、1時間20分で結んだ。しかし、道路の開通によるバスや自家用車の利用が進んだことにより鹿児島市は黒神航路の廃止を検討した。「ひまわり」の航路権が鹿児島県内において交通事業を行っている岩崎産業の手に渡るのを憂れた西桜島村(のちの桜島町、現・鹿児島市)は、1968年(昭和43年)に旅客定期航路事業として黒神航路を鹿児島市から移管した。移管後は桜島町によって運航されていた黒神航路であったが、移管から8年後となる1976年(昭和51年)3月26日をもって黒神航路のうち浦之前・新島間(現在の行政連絡船「しんじま丸」の区間)を除いて全区間の運航が終了した。
1988年(昭和63年)8月22日から23日にかけて鹿児島地方を襲った局地豪雨によって高免町では8か所の崖崩れが発生した。高免消防団は22日の22時30分に避難勧告の呼びかけを行っていたが、23日の0時10分ごろに発生したがけ崩れによって死者1名、負傷者3名、家屋の全壊2戸・半壊1戸の被害を受けた。また、東桜島消防分遣隊によれば1976年(昭和51年)から1987年(昭和62年)までの間に高免町では18件のがけ崩れが発生している。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
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例)東京第一小学校の場合
・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
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